浄見原神社国栖奏2024/2/23(日程時間・・・)

浄見原神社国栖奏

浄見原神社国栖奏(日程・・・)を紹介しています。国栖奏は毎年旧暦の1月14日に行われています。国栖奏は舞翁2人・笛翁4人・鼓翁1人・歌翁5人で構成されています。なお国栖奏はかつて大嘗祭(だいじょうさい)や七節会などで奏奉するように制定されていたが、寿永年間(1182年~1184年)頃に中止になったと言われています。(詳細下記参照)

【浄見原神社国栖奏2024 日程時間(要確認)】
浄見原神社国栖奏2024は2024年(令和6年)2月23日(金曜日)13:00から行われます。(現在確認中・要注意)
*参考・・・吉野町ホームページ

【浄見原神社国栖奏 アクセス・マップ】
場所・・・奈良県吉野郡吉野町南国栖1
最寄り駅・バス停・・・南国栖隧道(徒歩約5分)

アクセス路線は次の通りです。
*近鉄吉野線・大和上市駅から吉野町スマイルバス

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【浄見原神社国栖奏 歴史・簡単概要】
浄見原神社国栖奏(くずそう)・国栖舞・翁の舞は「日本書紀」によると288年(応神天皇19年)に第15代・応神天皇が吉野の宮(宮滝)に行幸した際、一夜酒(醴酒)と土毛(くにつもの)を献じ、歌舞を見せたのが起源とも言われています。その後天智天皇の弟・大海人皇子が天智天皇の皇子・大友皇子と戦った672年(天武天皇元年)の壬申の乱の際、匿われた大海人皇子が国栖奏を見て、翁の舞と名付けたと言われています。また大海人皇子は天皇に即位すると国栖奏を大嘗祭(だいじょうさい)や七節会(しちせちえ)などで奏奉するように制定したとも言われています。
国栖奏では先ず午前中に栗(山菓)・一夜酒(醴酒)・ウグイ(腹赤の魚)・根芹(土毛)・山赤蛙(毛瀰)の五品が神前に供えられます。その後午後から吉野川右岸の断崖絶壁に造営された舞殿で国栖奏が行われます。舞殿では笛などの楽器を供え、祝詞奏上などが行われ、その後国栖奏が奉納されます。先ず一歌・二歌を謡い、次に供えた楽器を持ち、笛に合わせて三歌を謡い、次に舞翁が舞い、最後に四歌を謡います。ちなみに国栖奏は舞翁2人・笛翁4人・鼓翁1人・歌翁5人で構成され、かつては翁筋と言われる家の直系の嫡男だけしか参加できなかったそうです。
一歌・・・世にいでば 腹赤の魚の 片割れも 国栖の翁が 淵に住む月
二歌・・・みよしのに 国栖の翁が なかりせば 腹赤の身贄 誰か捧げむ
三歌・・・鈴の音に 白木の笛の 音するは 国栖の翁の 参るものかは
四歌・・・橿の生に 横臼を作り 横臼に 醸める大御酒 うまらに 聞し持ち食せ まろが父
国栖奏は1877年(明治10年)に第122代・明治天皇が天覧し、1926年(大正15年)には宮内省雅楽部の楽長・多忠朝(おおのただとも)によって整備されたと言われています。なお国栖奏は奈良県の無形文化財に指定されたいます。

【浄見原神社 歴史・簡単概要】
浄見原神社(きよみがはらじんじゃ)は起源が明確ではありません。浄見原神社は「吉野旧事紀」によると寿永年間(1182年~1184年)頃に宮中の大嘗祭や七節会などで奏奉されていた国栖奏(くずそう)や国栖(国樔)の人の参内が中止になり、第40代・天武天皇(大海人皇子)にゆかりが深い天皇淵に天皇社が造営されたのが起源とも言われています。その際浄見原神社で国栖奏の奉納も始まったと言われています。ちなみに国栖奏は「日本書紀」によると288年(応神天皇19年)に第15代・応神天皇が吉野の宮(宮滝)に行幸した際、一夜酒(醴酒)と土毛(くにつもの)を献じ、歌舞を見せたのが起源とも言われています。なお浄見原神社がある国栖では第38代・天智天皇の弟・大海人皇子が天智天皇の皇子・大友皇子と戦った672年(天武天皇元年)の壬申の乱の際、追われた大海人皇子を匿い、一夜酒や腹赤魚(うぐい)を献じ、国栖奏でもてなしたとも言われています。なお浄見原神社は天武天皇を祀っています。

【浄見原神社国栖奏 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
浄見原神社(アクセス・見どころ・・・)情報

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