元興寺見所ランキング-修学旅行・観光で必見
元興寺の見所は極楽坊本堂・禅室・かえる石・浮図田です。
元興寺の見所ランキングを紹介します。見所は1位が奈良時代に建てられ、鎌倉時代に改築された極楽坊本堂(国宝)、2位が奈良時代に建てられ、鎌倉時代に改築された禅室(国宝)、3位が不思議なかえる石です。番外は浮図田です。(詳細下記参照)
- 奈良時代に建立され、800年近い歴史がある極楽坊本堂(国宝)
- 奈良時代に建立され、800年近い歴史がある禅室(国宝)
- 1958年(昭和33年)に移されてきたかえる石
- 8月下旬に地蔵会万灯供養が行われる浮図田
【奈良時代に建立され、800年近い歴史がある極楽坊本堂(国宝)の見所】
極楽坊本堂は禅室とともに奈良時代(710年~794年)に建立された僧房が起源で、鎌倉時代(1185年~1333年)前期に改築され、その後焼失などを免れたことから800年近い歴史があります。飛鳥時代(592年~710年)の丸瓦が使用されています。極楽坊本堂は桁行六間・梁間六間の周りを回りながら拝観するのがおすすめです。特に屋根に葺かれている瓦に気を付けながら回るのがおすすめです。極楽坊本堂西側にある丸瓦には千三百年前の飛鳥時代(592年~710年)の丸瓦が使用されています。飛鳥時代の瓦は飛鳥に建立されていた法興寺で使用され、平城京遷都ととも元興寺に移されてきました。ちなみに古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広くなっており、魚の鱗のように古瓦を重ねる葺き方は行基葺とも言われています。極楽坊本堂は本尊・智光曼荼羅の中の阿弥陀如来を祀っています。極楽坊本堂ではかつて往生人智光法師が夢で見た極楽浄土を描かせた智光曼荼羅を祀ってきたが、1451年(宝徳3年)の土一揆で焼失しました。なお極楽坊本堂は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財、1955年(昭和30年)2月2日に国宝に指定されました。
- 歴史-極楽坊本堂は奈良時代(710年~794年)に僧侶が住む僧房として建立されました。内陣周囲の角柱や天井板に奈良時代の部材が使われています。僧房は東西に長い建物だったが、鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1244年(寛元2年)に改築され、東端部分(三房)が極楽坊本堂、それ以外の西側部分(四房)が禅室になりました。極楽坊本堂は往生人智光法師感得の浄土曼荼羅を祀り、極楽堂とも、曼荼羅堂とも言われました。また南都(奈良)における浄土教発祥の聖地とも言われています。
- 曼荼羅-極楽坊本堂は鎌倉時代初期頃(12世紀末)に作られた縦約217.0センチ・横約195.0センチの板絵智光曼荼羅(重要文化財)、室町時代(1336年~1573年)後期に作られた縦約53.3センチ・横約47.3センチの智光曼荼羅(高さ約93.1センチの厨子入)を祀っています。
【奈良時代に建立され、800年近い歴史がある禅室(国宝)の見所】
禅室は極楽坊本堂とともに奈良時代(710年~794年)に建立された僧房が起源で、鎌倉時代(1185年~1333年)前期に改築され、その後焼失などを免れたことから800年近い歴史があります。飛鳥時代(592年~710年)の丸瓦が使用されています。禅室は桁行四間・梁間四間の周りを回りながら拝観するのがおすすめです。特に屋根に葺かれている瓦に気を付けながら回るのがおすすめです。禅室東南隅にある丸瓦には千三百年前の飛鳥時代(592年~710年)の丸瓦が使用されています。禅室(僧房)西南の部屋は影向間とも言われ、かつて宝庫(経蔵)のように使われていました。真言宗の宗祖である弘法大師・空海は毎日僧房の経蔵で勉強をし、智光曼荼羅を拝んでいると春日大明神が影向したことに気付き、春日曼荼羅を描いて春日大明神を勧請しました。また弘法大師・空海は自らの影(姿)を彫り、その像も部屋にとどめました。像は法輪館に収蔵されています。禅室を拝観しながらその歴史を感じるのもいいかもしれません。なお禅室は1906年(明治39年)4月14日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。
- 歴史-禅室は奈良時代(710年~794年)に僧侶が住む僧房として建立されました。禅室には極楽坊本堂と同じように奈良時代の部材が使われています。僧房は東西に長い建物だったが、鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1244年(寛元2年)に改築され、東端部分(三房)が極楽坊本堂、それ以外の西側部分(四房)が禅室になりました。なお2000年(平成12年)に元興寺文化財研究所は禅室の部材を年輪年代測定法で調査すると582年(敏達天皇11年)に伐採された樹木が使用されていると発表しました。
【1958年(昭和33年)に移されてきたかえる石の見所】
かえる石は安土桃山時代(1573年~1603年)に関白・豊臣秀吉が気に入って大坂城内に移したと言われ、大阪の陣で滅亡した豊臣家とゆかりがあります。かえる石は境内北側に置かれているガマガエルのような石です。かえる石は江戸時代(1603年~1868年)前期の1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で大阪城が落城して豊臣家が滅亡した際、関白・豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母・淀殿(茶々)の遺骸が下に埋められ、怨念がこもっているとも言われていたそうです。かえる石を眺めながらその歴史を感じるのもいいかもしれません。なお元興寺では例年7月7日にかえる石供養を行っています。
- 歴史-かえる石は元々、大阪河内の川縁にあったが、豊臣秀吉が気に入り、大坂城内に移したと言われています。その後太平洋戦争後に行方不明になり、1958年(昭和33年)に元興寺に移されてきたそうです。
【8月下旬に地蔵会万灯供養が行われる浮図田の見所】
浮図田は極楽坊本堂(国宝)・禅室(国宝)南側にあります。浮図田には五輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)・舟型五輪塔(宝篋印塔)板碑)など約2千5百基の石塔や石仏が整然と並べられています。「浮図」は仏陀(ぶっだ)のことで、浮図田は仏像・仏塔が稲田のごとく並ぶ並べられた場所という意味があります。五輪塔は密教の教義をもとに地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、大日如来(だいにちにょらい)・阿弥陀如来(あみだにょらい)を表しています。宝篋印塔は10世紀に中国で盛んに造られた金属製阿育王塔(あしょかおうとう)を起源とし、滅罪・延命などの功徳のある経典「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めたことが名称の由来です。石塔には「道意」・「妙空」など僧侶の名前が刻まれたり、生前に自ら極楽往生を願って「逆修」と刻まれたりするものがあります。元興寺では例年8月23日・24日に中世以来の地蔵信仰を受け継ぐ地蔵会万灯供養(じぞうえまんとうくよう)が行われ、昼間と違う光景を見られます。地蔵会万灯供養では灯明皿に菜種油(なたねあぶら)を注ぎ、藺草(いぐさ)を灯芯に明かりが灯されます。
- 歴史-浮図田は1988年(昭和63年)に現在の姿に整備されました。浮図田に建立されている石塔はかつて禅室(国宝)の北西部石舞台に積み上げられていました。
【元興寺 備考】
*参考・・・元興寺(見所・アクセス・・・)ホームページ