興福寺弁財天供2025年7月7日(日程時間・・・)
興福寺弁財天供(日程時間・アクセス・概要・・・)
興福寺弁財天供(日程・・・)を紹介しています。弁財天供は例年7月7日に行われています。弁財天供では弁財天を安置する三重塔(国宝)が1年に1度だけ特別開扉され、法要が行なわれます。弁財天はかつて興福寺の塔頭・世尊院(せそんいん)に安置されていたが、明治時代の神仏分離(廃仏毀釈)後に三重塔に移されたそうです。(詳細下記参照)
【興福寺弁財天供2025 日程時間(要確認)】
興福寺弁財天供2025は2025年(令和7年)7月7日(月曜日)10:00から法要が行われます。特別開扉は法要終了後~16:00です。(現在確認中・要注意)
*参考・・・奈良世界遺産・興福寺ホームページ
【興福寺弁財天供 アクセス・マップ】
場所・・・奈良県奈良市登大路町48
最寄り駅・バス停・・・近鉄奈良駅(徒歩約7分)
アクセス路線は次の通りです。
*近鉄奈良線
*JR奈良駅から市内循環バスの場合、県庁前(徒歩すぐ)
路線・時刻表・運賃チェック
【興福寺弁財天供 歴史・簡単概要】
興福寺弁財天供(べんざいてんく)では弁財天の縁日に弁財天を安置する三重塔(国宝)が1年に1度だけ特別開扉され、法要が行なわれます。弁財天はかつて興福寺の塔頭・世尊院(せそんいん)に安置されていたが、明治時代の神仏分離(廃仏毀釈)後に三重塔に移されたそうです。なお興福寺では弘法大師・空海が南円堂(重要文化財)を建立した際、天河弁才天(天河神社・天河大弁財天社)に参籠して宇賀弁才天(宇賀神王)を感得し、窪弁才天として勧請したそうです。その後興福寺では学問遂行を祈願する為、弁財天を熱心に信仰するようになったそうです。
弁財天(弁才天)は仏教の守護神である天部の一尊です。弁財天はインドでサラスバティー川の河神とされていたが、仏教に取入れられて音楽・財富・知恵・延寿などを司る女神とされました。日本では七福神(毘沙門天・恵比寿・大黒天・寿老人・福禄寿・布袋)に数えられ、財福の神とされています。ちなみに弁財天信仰は奈良時代には既に始まっていたとも言われています。
天河神社(天河大弁財天社)は室町時代に僧・英俊が記した「多聞院日記」によると飛鳥時代に修験道の祖である役行者が大峯山に蔵王権現を祀るのに先立って、最高峰・弥山の鎮守として、弁才天を祀ったのが起源とも言われています。
●興福寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
興福寺歴史
●興福寺の見どころ(東金堂・五重塔など)を紹介しています。
興福寺見どころ
【興福寺 歴史・簡単概要】
興福寺(こうふくじ)は669年(天智天皇8年)に藤原氏の始祖・藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌足(なかとみのかまたり))の妻・鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・藤原鎌足の病気平癒の祈願の為に藤原鎌足発願の本尊・釈迦三尊像や四天王などを安置する山階寺(やましなでら)を山背国山階陶原(京都市山科区)に創建したのが起源と言われています。672年(天武天皇元年)の藤原京遷都とともに山階寺も移され、地名から厩坂寺(うまやさかでら)と言われました。その後710年(和銅3年)の平城京遷都とともに藤原鎌足の子・藤原不比等(うじわらのふひと)が現在の場所に移し、興福寺と名付けました。720年(養老4年)に藤原不比等が亡くなると造興福寺仏殿司が設けられ、国家事業として伽藍が整備され、奈良時代に四大寺、平安時代に七大寺に数えられ、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)とともに南都北嶺と称されました。最盛期には一乗院(いちじょういん)・大乗院(だいじょういん)など塔頭や付属寺院が百か院以上を数えたそうです。また平安時代に春日大社(かすがたいしゃ)の実権も手に入れ、大和国を領するほどになり、鎌倉時代・室町時代に鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たり、江戸時代には興福寺・春日大社の知行地が2万1千余石と定められました。なお興福寺は1998年(平成10年)世界遺産条約により、ユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)のひとつに登録されました。
興福寺は法相宗の大本山です。
*参考・・・奈良世界遺産・興福寺(アクセス・見どころ・・・)ホームページ
【興福寺弁財天供 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
奈良世界遺産・興福寺(アクセス・見どころ・・・)情報