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長岳寺楼門・長岳寺見どころ(修学旅行・観光)
長岳寺楼門
●長岳寺楼門は1906年(明治39年)4月14日に国の重要文化財に指定されました。
●長岳寺楼門は上階が平安時代後期(1086年~1184年)、下階が安土桃山時代(1573年~1614年)に建立されました。楼門は寺伝によると真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が創建した当時の唯一の伽藍で、日本最古の鐘門とも言われています。楼門はかつて上層に梵鐘を吊っていたことから鐘楼門(しょうろうもん)とも言われています。
弘法大師・空海は774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公と母・阿刀大足の妹の間に佐伯眞魚として生まれました。ただ誕生日は明確ではなく、真言宗では空海が唐(中国)の高僧で、三蔵法師の一人である不空三蔵(不空金剛)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。788年(延暦7年)に奈良・平城京に上り、789年(延暦8年)に母方の叔父・阿刀大足のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に官僚育成機関である大学寮に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗の僧で、東大寺別当・勤操のもとで南都仏教を学び、804年(延暦23年)に東大寺戒壇院で得度・受戒したと言われています。804年(延暦23年)に第18次遣唐使として、遣唐大使・橘逸勢や天台宗の宗祖である伝教大師・最澄らと唐(中国)に渡りました。その後長安で真言八祖の第七祖である青竜寺の恵果のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛の灌頂名を与えられました。その後恵果が亡くなると全弟子を代表して顕彰する碑文を起草しました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。ただ20年の留学期間を2年で切り上げて帰国したことから2年ほどは大宰府・観世音寺に止住しました。809年(大同4年)に京都に入京し、810年(大同5年)に第52代・嵯峨天皇と平城上皇(第51代・平城天皇)が対立する薬子の変が起こると嵯峨天皇について鎮護国家の為の大祈祷を行ないました。816年(弘仁7年)に嵯峨天皇から和歌山・高野山を賜り、816年(弘仁7年)からいずれも十大弟子である泰範・実恵らを派遣して金剛峯寺の創建に着手しました。823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。828年(天長5年)に「綜藝種智院式并序」を著すとともに私立の綜芸種智院を開設しました。832年(天長9年)に高野山で最初の万燈万華会が行われ、秋から高野山に隠棲しました。834年(承和元年)に東大寺で「法華経」などを講じ、835年(承和2年)に宮中で後七日御修法を修しました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月15日に弟子に遺告を与え、3月21日に高野山で入定しました。921年(延喜21年)に東寺長者・観賢が奏上し、第60代・醍醐天皇から諡号「弘法大師」を賜りました。
●長岳寺楼門は一間一戸楼門(いっけんいっこ)で、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
長岳寺