長弓寺本堂・長弓寺見どころ(修学旅行・観光)

長弓寺本堂

●長弓寺本堂は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)11月14日に国宝に指定されました。
●長弓寺本堂は墨書によると鎌倉時代後期の1279年(弘安2年)に建立されました。本堂は真言律宗の祖である興正菩薩(こうしょうぼさつ)・叡尊(えいそん)が再建したとも言われています。本堂は平安時代後期に造仏され、黒漆厨子(国の重要文化財)に収められている丈四尺(一木造)の木造十一面観音(じゅういちめんかんのん)立像(国の重要文化財)を本尊として安置しています。扉内左側に胎蔵界種子曼荼羅(たいぞうかいしゅしまんだら)・不動明王(ふどうみょうおう)二童子(にどうじ)像、右側に金剛界種子曼荼羅(こんごうかいしゅしまんだら)・降三世明王(ごうざんぜみょうおう)像が極彩色で描かれています。
叡尊は1201年(建仁元年)に興福寺の学侶・慶玄の子として生まれたとも言われています。1207年(承元元年)に母が亡くなり、1217年(建保5年)に醍醐寺の阿闍梨・叡賢に師事して出家しました。1224年(元仁元年)に高野山に入って真言密教を学び、1235年(嘉禎元年)に戒律の復興を志し、真言律宗総本山である西大寺宝塔院の持斎僧になり、「四分律行事鈔」を学びました。1236年(嘉禎2年)に東大寺で自誓受戒し、海龍王寺を経て、西大寺に戻って戒律の普及に勤めました。1240年(仁治元年)に西大寺に入寺し、弟子となる忍性の文殊菩薩信仰に影響を受け、その後額安寺西宿で最初の文殊供養を催し、非人を文殊菩薩の化身に見立て非人に斎戒を授けました。ちなみに1269年(文永6年)に般若寺で文殊菩薩像の落慶供養を催した際、非人2千人を集めた最大の非人供養が行われました。1262年(弘長2年)に鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の招きで鎌倉に下向し、北条時頼・北条実時に拝謁して授戒しました。また蒙古襲来(元寇)の際には伊勢神宮や石清水八幡宮に詣でて異国降伏の祈祷も行いました。なお叡尊は1290年(正応3年)9月29日に西大寺で亡くなりました。
十一面観音は六観音の一尊です。六観音は千手観音・聖観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音または不空羂索観音です。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。十一面観音像は通例として、頭上の正面側に柔和相(3面)、左側(向かって右)に憤怒相(3面)、右側(向かって左)に白牙上出相(3面)、背面に大笑相(1面)、頭頂に仏相を現します。
●長弓寺本堂は桁行五間・梁間六間で、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。本堂は向拝(こうはい)一間です。本堂は新和様とも言われる様式で、組物は簡素だが、彫刻入りの蟇股・内部の虹梁や垂木が構造の美を表わしています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
向拝は寺院・神社建築で仏堂・社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分です。向拝は仏堂・社殿の入口に階段上に設けられることから階隠(はしかくし)とも言われています。
長弓寺

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