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栄山寺梵鐘・栄山寺見どころ(修学旅行・観光)
栄山寺梵鐘
●栄山寺梵鐘は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●栄山寺梵鐘は銘文から平安時代中期の917年(延喜17年)に鋳造されたと言われています。梵鐘は銘文は菅原道真(すがわらのみちざね)が撰し、小野道風(おののとうふう)が書いたと言われています。ただ917年(延喜17年)には既に菅原道真が亡くなり、書体は小野道風よりも古様と言われています。梵鐘は藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の5世の孫・藤原道明(ふじわらのみちあき)と藤原道明の伯父・橘澄清(たちばなのすみきよ)が京都市伏見区の道澄寺(どうちょうじ)に寄進されたが、その後栄山寺に移されました。梵鐘は京都の神護寺(じんごじ)・京都宇治の平等院(びょうどういん)とともに平安三絶の鐘(さんぜつのかね)と言われています。梵鐘は高さ155.0センチ・口径89.7センチです。
小野道風は894年(寛平6年)に漢学者で、能書家である参議・小野篁(おののたかむら)の孫で、小野葛絃(おののくずお)の三男として生まれたと言われています。小野道風は小野葛紘が尾張国春日井郡上条(愛知県春日井市松河戸)に滞在中に里女を母として生まれたと言われています。905年(延喜5年)に弱冠12歳で天皇が即位後に最初に行う新嘗祭(にいなめさい)である大嘗会(だいじょうえ)の屏風の色紙形を書き、920年(延喜20年)に能書の撰によって非蔵人(ひくろうど)に任じられました。925年(延長3年)に少内記(しょうないき)に任じられ、同年に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の生母・藤原胤子(ふじわらのいんし)の法要が勧修寺(かじゅうじ)で行われた際に供養願文の「法華経(ほけきょう)」を書く清書役に抜擢されました。926年(延長4年)に興福寺の寛建が入唐する際に菅原道真(すがわらのみちざね)らの漢詩とともに行書・草書各一巻を書いて携行されました。その後も第60代・醍醐天皇、第61代・朱雀天皇(すざくてんのう)に仕えて活躍し、「三体白氏詩巻(さんたいはくししかん)・(国宝)」・「智証大師諡号勅書(ちしょうだいししごうちょくしょ)・(国宝)」・「屏風土代びょうぶどだい)」・「玉泉帖(ぎょくせんじょう)」・「絹地切(つぎしきし) 」・「秋萩帖(あきはぎじょう)」などが残されています。小野道風は楷書(かいしょ)・行書(ぎょうしょ)・草書(そうしょ)などの各書体を巧みで、力強い豊潤な書風で書き、中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いたと言われています。小野道風の書は「野跡(やせき)」とも言われ、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)の「佐跡(させき)」・藤原行成(ふじわらのゆきなり)の「権跡(ごんせき)」とともに三跡と並び称されました。
菅原道真は845年(承和12年)6月25日(旧暦8月1日)に公家・菅原是善と母・伴真成の娘の三男として生まれました。幼少の頃から和歌・漢詩に優れ、862年(貞観4年)に18歳で官僚育成機関である大学寮で紀伝道を専攻する文章生試験に合格し、867年(貞観9年)に文章生から2名が選ばれる文章得業生になり、正六位下・下野権少掾に叙任されました。877年(元慶元年)に式部少輔・文章博士になりました。880年(元慶4年)に父・菅原是善が亡くなると祖父・菅原清公以来の私塾・菅家廊下を主宰しました。886年(仁和2年)に讃岐守に任命されて讃岐国に下向したが、890年(寛平2年)に第59代・宇多天皇の側近として帰京し、893年(寛平5年)に参議・式部大輔に任ぜられ、国政を担う公卿に列しました。899年(昌泰2年)に右大臣に任命され、901年(延喜元年)に従二位に叙せられました。しかしその直後に左大臣・藤原時平の讒言により、太宰府に左遷され、子供も流刑に処されました。その後903年(延喜3年)3月25日に太宰府で亡くなりました。死後に京都で悪疫が続き、930年(延長8年)に清涼殿落雷事件も起こり、菅原道真の怨霊の仕業と恐れられました。朝廷は923年(延喜23年)に左遷を撤回し、官位を右大臣に復して正二位を贈り、947年(天暦元年)に菅原道真を祀る北野天満宮が創建され、993年(正暦4年)5月に正一位・左大臣を追贈し、同年10月に太政大臣を追贈しました。
栄山寺