円成寺の歴史は虚滝和尚が勅願によって創建したの起源
円成寺の時代別年表と重要人物
円成寺は756年(天平勝宝8年)に鑑真和上の弟子・虚滝和尚が聖武上皇と第46代・孝謙天皇の勅願によって創建したとも言われています。また1026年(万寿3年)に命禅上人が十一面観音像を安置したのが起源とも言われています。なお修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
円成寺見どころ
【円成寺創建(起源・由来)】
- 円成寺は奈良時代中期の756年(天平勝宝8年)に唐(中国)からの渡来僧・鑑真和上(がんじんわじょう)の弟子・虚滝和尚(ころうおしょう)が聖武上皇(第45代・聖武天皇(しょうむてんのう))と第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう)の勅願によって創建したとも言われています。また平安時代後期の1026年(万寿3年)に円成寺中興の祖・命禅上人(みょうぜんしょうにん)が十一面観音(じゅういちめんかんのん)像を安置したのが起源とも言われています。十一面観音は春日明神(かすがみょうじん)が刻んだとされ、円成寺は春日大社(かすがたいしゃ)の奥の院とも言われました。ちなみに円成寺の起源が明確ではなく、「和州忍辱山円成寺縁起・江戸時代」によると前記のように756年(天平勝宝8年)または1026年(万寿3年)に創建されたとも言われています。なお円成寺は菩提山正暦寺(しょうりゃくじ)・鹿野園梵福寺(ぼんぶくじ)・誓多林万福寺(まんぷくじ)・大慈山薬師寺(やくしじ)とともに「北大和五山」に数えられました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 1112年(天永3年)に京都南山城・随願寺(ずいがんじ)または浄瑠璃寺(じょうるりじ)の僧で、小田原聖(おだわらひじり)と言われた経源(きょうげん)が阿弥陀堂を建立し、阿弥陀如来(あみだにょらい)像を安置しました。
- 1153年(仁平3年)に京都・仁和寺(にんなじ)の寛遍上人(かんぺんしょうにん)が円成寺に入寺し、東密広沢六流に数えられる東密忍辱山流(とうみつにんにくせんりゅう)を立宗したとも言われています。寛遍上人は広隆寺(こうりゅうじ)別当(べっとう)、東寺(とうじ)長者(ちょうじゃ)、高野山(こうやさん)管長(かんちょう)、東大寺(とうだいじ)別当を歴任しました。
- 平安時代から鎌倉時代に多くの堂宇が整備されたり、仏像が造仏されたりしました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、円成寺の堂宇の多くを焼失しました。
- 1481年(文明13年)に栄弘が室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の使者として朝鮮に赴き、「高麗版大蔵経(こうらいばんおおくらきょう)を入手しました。
- 1487年(文明19年)に円成寺の子院・知恩院(ちおいん)院主・栄弘阿闍梨(えいこうあじゃり)らが14の堂宇を再建しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 江戸時代に将軍の殊遇を受け、応仁の兵火後に請来された「高麗版大蔵経」を献上し、その恩賞として円成寺に105石が加増され、寺領が235石になりました。また山内に23の子院を有するようになりました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や寺領の返上によって衰退し、1877年(明治10年)には本堂・楼門・護摩堂・観音堂・鎮守三社だけが残されました。
- 1882年(明治15年)に盛雅和尚が円成寺に入寺し、本堂の大修理などの整備を行いました。
- 1920年(大正9年)に初層しか残されていなかった多宝塔が鎌倉市の長寿寺に移築され、1990年(平成2年)に現在の多宝塔が再建されました。
【第45代・聖武天皇:円成寺開基】
第45代・聖武天皇は701年(大宝元年)に第42代・文武天皇と藤原不比等の娘・宮子の間に第1皇子として生まれ、724年(神亀元年)に天皇に即位し、その後皇族皇后の慣習を破って、藤原不比等の娘・安宿媛を非皇族初の皇后にしました。聖武天皇は仏教に深く帰依し、国分寺・国分尼寺建立の詔や大仏造立の詔を発し、749年(天平勝宝元年)に娘・阿倍内親王(第46代・孝謙天皇)に譲位して出家し、756年(天平勝宝8年)5月2日に56歳で崩御しました。ちなみに聖武天皇は生前譲位した初の男性天皇とされています。
【円成寺 備考】
*参考・・・円成寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ