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円成寺庭園・円成寺見どころ(修学旅行・観光)
円成寺庭園
●円成寺庭園は1973年(昭和48年)10月9日に国の名勝に指定されました。
●円成寺庭園は平安時代末期の寛遍上人(かんぺんしょうにん)の時代に作庭されたとも言われています。庭園は平安時代から鎌倉時代に貴族住宅に流行した寝殿造(しんでんづくり)系の庭園に類似し、寺院に建立されている阿弥陀堂(あみだどう)前に広がる浄土式庭園として、奥州平泉(岩手県)の毛越寺(もうつうじ)の庭園とともに貴重な遺構とも言われています。ちなみに庭園は明治時代以降に池と伽藍地の間に県道が敷設されて景観が著しく損なわれたが、1961年(昭和36年)に県道が庭園の南側に移され、1976年(昭和51年)に庭園が復元改修されました。庭園は池の中央と西に中島があり、かつて中央の島に橋が架かっていました。
寛遍上人は平安時代後期の1100年(康和2年)に壬生大納言・沢大納言と号した大納言(だいなごん)・源師忠(みなもとのもろただ)の子として生まれました。京都・円教寺(えんぎょうじ)の寛蓮(かんれん)に師事して出家し、京都・仁和寺(にんなじ)の寛助(かんじょ)に灌頂を受けました。その後京都・広隆寺(こうりゅうじ)別当(べっとう)、京都・東寺(とうじ)長者(ちょうじゃ)や法務、和歌山・高野山管長、奈良・東大寺(とうだいじ)別当、仁和寺別当、円教寺別当を歴任し、1153年(仁平3年)に奈良・円成寺に入寺して再興し、一字金輪法(いちじきんりんほう)を日課としました。また高野山大塔落慶供養の導師を勤め、仁和寺の塔頭(たっちゅう)・尊寿院(そんじゅいん)を建立し、第74代・鳥羽天皇(とばてんのう)の皇后・美福門院(びふくもんいん・藤原得子(ふじわらのとくし))が寄進した「御手印縁起」を尊寿院に収めました。1161年(応保元年)に大僧正(だいそうじょう)になりました。寛遍上人は真言密教広沢六流(仁和御流・西院流・ 保寿院流・大伝法院流・忍辱山流・華蔵院流)に数えられる忍辱山(にんにくせん)流の祖にもなりました。なお寛遍上人は1166年(永万2年)7月28日に亡くなりました。
浄土式庭園(浄土庭園)は浄土思想に基づいて造営された日本庭園の形式です。浄土式庭園は極楽浄土を模して仏堂・仏堂の前面などに造営されました。浄土式庭園はお釈迦様の入滅から2,000年目以降に仏法が廃れるという末法思想(まっぽうしそう)が広がった平安時代後期頃から盛んに造営されるようになりました。浄土式庭園では京都府宇治市の平等院(びょうどういん)の庭園(名勝)・岩手県平泉町の毛越寺(もうつうじ)の庭園(特別名勝)・岩手県平泉町の観自在王院(かんじざいおういん)の庭園(名勝)・奈良県奈良市の円成寺(えんじょうじ)の庭園(名勝)・京都府木津川市の浄瑠璃寺(じょうるりじ)の庭園(特別名勝)が知られています。
毛越寺は寺伝によると平安時代中期の850年(嘉祥3年)に比叡山(ひえいざん)第3世天台座主である慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)が一宇の堂を建立し、自作の医王善逝(いおおぜんぜい・薬師如来(やくしにょらい))の霊像を本尊に安置して嘉祥寺(かしょうじ)と号したのが起源とも言われています。
円成寺見どころ