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円証寺本堂・円証寺見どころ(修学旅行・観光)
円証寺本堂
●円証寺本堂は1971年(昭和46年)6月18日に国の重要文化財に指定されました。
●円証寺本堂は室町時代後期(戦国時代)の1552年(天文21年)に建立されたました。円証寺は元々興福寺(こうふくじ)の衆徒であった筒井氏の外館(下屋敷)だったが、1550年(天文19年)6月20日に筒井順昭(つついじゅんしょう)が亡くなると外館が順昭の菩提寺として寺院に改められ、本堂が建立されたと言われています。円証寺はかつて近鉄奈良駅南側の繁華街に位置していたが、1985年(昭和60年)に繁華街の騒音などの問題から本堂も現在の場所に移されました。本堂は釈迦三尊像などを安置しています。釈迦三尊像は鎌倉時代に造仏された本尊・釈迦如来(しゃかにょらい)坐像といずれも平安時代に造仏された脇侍である文殊菩薩(もんじゅぼさつ)騎獅(きし)像(重要文化財)・普賢菩薩(ふげんぼさつ)騎象(きぞう)像(重要文化財)から構成されています。
お釈迦さま(ゴータマ・シッダッタ)は仏教の開祖で、世界四聖の一人です。ちなみに仏陀とは悟った者・目覚めた者を意味するお釈迦様の尊称です。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。お釈迦さまの遺骸は火葬され、遺骨は各地のストゥーパに分けて祀られたそうです。
文殊菩薩は菩薩の一尊です。文殊菩薩は一般的に普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍とされています。文殊菩薩は智慧(ちえ)を司り、「三人寄れば文殊の智恵」ということわざの由来になっています。また文殊菩薩は般若波羅蜜(はんにゃはらみった)を説き、「般若経(はんにゃ)」を編集したとも言われています。「華厳経(けごんきょう)」では東方清涼山に住むとされ、中国五台山の清涼寺が霊地にあたるとされています。文殊菩薩像は獅子(しし)の背の蓮華座(れんげざ)に結跏趺坐(けっかふざ)し、右手に智慧を象徴する利剣、左手に経典を乗せた青蓮華(しょうれんげ)を持っています。
普賢菩薩は菩薩の一尊です。普賢菩薩は一般的に文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍とされています。普賢菩薩は理知(りち)・慈悲(じひ)を司り、「法華経(ほけきょう)」を護持する者を守護するとされています。「法華経」は女人成仏(にょにんじょうぶつ)を説いていることから普賢菩薩は女性の篤く信仰されています。普賢菩薩像は六牙(ろくげ)の白象(はくぞう)の背の蓮華座(れんげざ)に結跏趺坐(けっかふざ)し、左手に宝剣(ほうけん)を立てた蓮茎(れんけい)、右手は三業妙善(さんごうみょうぜん)の印を結んでいます。
●円証寺本堂は桁行三間・梁間三間で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。本堂は向拝(こうはい)一間(いっけん)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
向拝は寺院・神社建築で仏堂・社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分です。向拝は仏堂・社殿の入口に階段上に設けられることから階隠(はしかくし)とも言われています。
円証寺