元興寺かえる石・元興寺見どころ

元興寺かえる石

●元興寺かえる石はかえる石はかつて大阪河内の川淵にあったが、関白・豊臣秀吉が気に入って大坂城内に移したと言われています。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で大坂城が落城した際に豊臣秀吉の側室で、豊臣秀吉の母・淀君の遺骸が下に埋められ、怨念がこもっているとも言われています。なお元興寺では毎年7月7日にかえる石供養を行っています。
豊臣秀吉は戦国時代(室町時代後期)の1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城(ひくまじょう)の支城・頭陀寺城(ずだじじょう)城主・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長(おだのぶなが)に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城(ながはまじょう)城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
淀君(浅井茶々(あざいちゃちゃ))は戦国時代(室町時代後期)の1569年(永禄12年)に北近江の戦国大名で、浅井氏3代目・浅井長政(あざいながまさ)と織田信長(おだのぶなが)の妹・市(いち)の長女として近江国小谷(滋賀県長浜市)に生まれました。1560年代に父・浅井長政と伯父・織田信長が同盟を結んで、母・市が継室として嫁ぎました。1570年(元亀元年)に伯父・織田信長が朝倉への不戦の誓いを破って朝倉氏を攻撃すると父・浅井長政は同盟を破棄して織田・徳川連合軍を背後から急襲しました。1573年(天正元年)に伯父・織田信長が父・浅井長政の居城・小谷城を攻撃すると母・市と妹の初(はつ・常高院(じょうこういん))・江(ごう・崇源院(すうげんいん))とともに救出されました。伯父・織田信長が自刃した1582年(天正10年)本能寺の変(ほんのうじのへん)後に母・市が柴田勝家(しばたかついえ)と再婚し、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で義父・柴田勝家が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れて母・市とともに自害したが、淀君と2人の妹は豊臣秀吉に保護されました。1588年(天正16年)頃に豊臣秀吉の側室になり、1589年(天正17年)に捨(鶴松(つるまつ))を生んだが、1591年(天正19年)に捨が亡くなりました。1593年(文禄2年)に拾(豊臣秀頼(とよとみひでより))を生み、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなりました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で江戸幕府初代将軍・(とくがわいえやす)が勝利し、その後将軍に就任すると江戸幕府(徳川)と対立するようになり、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で大坂城が落城し、子・豊臣秀頼や大野治長(おおのはるなが)らととともに自害しました。
元興寺見どころ

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