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元興寺小塔院跡・元興寺見どころ(修学旅行・観光)
元興寺小塔院跡
●元興寺小塔院跡は奈良県奈良市西新屋町にあります。小塔院は奈良時代に第48代・称徳天皇が百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)を納める為に建立されたとも言われています。また小塔院は寺伝によると第45代・聖武天皇の時代(724年(神亀元年)~749年(天平勝宝元年))頃に西の金堂とも言われた吉祥堂が東大寺の大仏開眼で導師を務めた菩提遷那(ぼだいせんな)が来日した際に小塔堂に改築され、小塔堂を中心に小塔院が形成されたとも言われています。更に小塔院は境内に奈良時代から平安時代初期に活躍した法相宗の僧・護命(ごみょう)の供養塔があり、護命ゆかりの寺院跡とも言われています。室町時代中期の1451年(宝徳3年)の土一揆による大火で堂宇の多くが焼失し、元興寺では極楽坊・五重塔だけが残りました。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に現在の虚空蔵堂(本堂)が建立されました。1965年(昭和40年)6月2日に境内一円が「元興寺小塔院跡」として、国の史跡に指定されました。なお虚空蔵堂は虚空蔵菩薩を祀っています。
第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇)は718年(養老2年)に第45代・聖武天皇と藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后になった光明皇后(光明子)の間に阿倍内親王(あべないしんのう)として生まれました。第45代・聖武天皇と光明皇后の間には基王(もといおう・基皇子(もといのみこ))が生まれたが、早世しました。また第45代・聖武天皇と県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)の間には安積親王(あさかしんのう)が生まれたが、後ろ盾を持たなかったことから阿倍内親王が738年(天平10年)に立太子し、史上唯一の女性皇太子になりました。744年(天平17年)に安積親王が亡くなり、749年(天平勝宝元年)に父で、第45代・聖武天皇の譲位によって即位し、第46代・孝謙天皇になりました。758年(天平宝字2年)に病気の母・光明皇太后に仕える為に大炊王(第47代・淳仁天皇)に譲位して太上天皇(孝謙上皇)になり、その後弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛するようになり、孝謙上皇・弓削道鏡と対立した藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん・恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん))が起こると第47代・淳仁天皇が廃帝(はいたい)とされ、第48代・称徳天皇になりました。その後弓削道鏡が皇位に就くべしという宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん・道鏡事件)が起こりました。なお第48代・称徳天皇は770年(神護景雲4年)8月28日に崩御しました。
菩提遷那は飛鳥時代後期に当たる704年に南インド(婆羅門)のバラモン階級(婆羅門)に生まれました。ローカタクシャ・安世高(あんせいこう)の偉業を追って入唐したとも、中国五台山の文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の霊験を耳にして入唐したとも言われています。唐(中国)長安の崇福寺を拠点に活動していたが、733年(天平5)に遣唐使として入唐していた多治比真人広成(たじひのまひとひろなり)・中臣名代(なかとみのなしろ)・理鏡らの要請により、736年(天平8年)林邑国(ベトナム南部)の仏哲(ぶってつ)・中国の道せん(どうせん)らと来日しました。行基に迎えられて平城京に入り、大安寺に住しました。751年(天平勝宝3年)に僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)に東大寺の大仏開眼で導師を務め、第45代・聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺の四聖と称えられています。なお菩提遷那は760年(天平宝字4年)3月16日に大安寺で西方を向いて合掌したまま亡くなり、3月23日に登美山右僕射林に葬られました。
元興寺見どころ