御霊神社他戸神社・御霊神社見どころ(修学旅行・観光)

御霊神社他戸神社

●御霊神社他戸神社は本殿が1916年(大正5年)5月24日に国の重要文化財に指定されました。
●御霊神社他戸神社は本殿が室町時代中期の1472年(文明4年)に建立されました。本殿は他戸親王(おさべしんのう)を祀っています。
他戸親王は奈良時代後期の761年(天平宝字5年)に第49代・光仁天皇(こうにんてんのう)となる白壁王(しらかべおう)と第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の第1皇女・井上内親王(いのえないしんのう)の第4皇子として生まれました。母・井上内親王は高齢出産である45歳で他戸親王を生みました。770年(宝亀元年)10月1日に父・白壁王が62歳で第49代・光仁天皇に即位すると同年11月6日に母・井上内親王は皇后になり、翌771年(宝亀2年)1月23日に11歳で他戸親王は立太子されました。父・光仁天皇は第38代・天智天皇(てんぢてんのう)の孫だったが、皇統は第40代・天武天皇(てんむてんのう)系に移っていたが、度重なる政変で天武天皇嫡流の男系皇族が少なく、母・井上内親王は天智天皇の曽孫で、天武天皇の嫡流である聖武天皇の皇女であったことから第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)の遺言により、父・白壁王が第49代・光仁天皇に即位しました。しかし772年(宝亀3年)3月2日に母・井上内親王が父・光仁天皇に災いが振り掛かるように呪詛(じゅそ)したという大逆(たいぎゃく)の罪で皇后を廃されると同年5月27日に他戸親王も連座して皇太子を廃され、翌773年(宝亀4年)1月2日に父・光仁天皇の第1皇子で、第50代・桓武天皇(かんむてんのう)となる山部親王(やまのべしんのう)が立太子されました。呪詛は山部親王(第50代・桓武天皇)を立太子される為の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)・藤原百川(ふじわらのももかわ)ら藤原式家(ふじわらしきけ)の陰謀とも言われています。773年(宝亀4年)10月14日に父・光仁天皇の同母姉・難波内親王(なにわないしんのう)が亡くなると母・井上内親王に呪詛して殺害したという嫌疑も掛かり、同年10月19日に母・井上内親王とともに庶人に落とされ、大和国宇智郡(奈良県五條市)に幽閉され、775年(宝亀6年)4月27日に母・井上内親王とともに15歳で暗殺されたとも、自害したとも言われています。ここに天武天皇系の皇統は途絶えました。その後京都・平安京(へいあんきょう)で天変地異が起こったり、悪疫(あくえき)が流行したりしたことから井上内親王・他戸親王の祟りとされ、母・井上内親王は皇后に復され、第50代・桓武天皇の第12皇子で、勅使・葛井親王(ふじいしんのう)が派遣され、霊安寺(りょうあんじ)・御霊神社(ごりょうじんじゃ)が創建されたと言われています。なお779年(宝亀10年)に他戸親王の偽者が周防国(山口県)に現れ、伊豆に配流されるという事件があったとも言われています。
●御霊神社他戸神社は本殿が一間社(いっけんしゃ)流見世棚造(ながれみせだなづくり)の板葺(いたぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
見世棚造は土台の上に組まれ、正面に階段のない間口が一間ぐらいの小さな社殿です。見世棚造は神社の末社などに使われます。
板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
御霊神社

奈良観光おすすめ

  1. 柳生一刀石
  2. 若草山(Mt. Wakakusa-yama)
  3. 吉野山
ページ上部へ戻る