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御霊神社早良神社・御霊神社見どころ(修学旅行・観光)
御霊神社早良神社
●御霊神社早良神社は本殿が1916年(大正5年)5月24日に国の重要文化財に指定されました。
●御霊神社早良神社は本殿が室町時代中期の1472年(文明4年)に建立されました。本殿は早良親王(さわらしんのう)を祀っています。
早良親王は奈良時代中期の750年(天平勝宝2年)頃に第49代・光仁天皇(こうにんてんのう)と高野新笠(たかののにいがさ)の第2皇子として生まれました。母・高野新笠は父が百済(くだら)系渡来人和氏の和乙継(やまとのおとつぐ)、母が宿禰(すくね)姓の土師真妹(はじのまいも)とも言われ、母方は下級貴族でした。同母兄弟には姉に能登内親王(のとのひめみこ)、兄に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)となる山部親王(やまのべしんのう)がいます。761年(天平宝字5年)に出家して東大寺(とうだいじ)羂索院(けんじゃくいん)・大安寺(だいあんじ)東院(とういん)に住み、親王禅師(しんのうぜんじ)と言われ、東大寺開山・良弁(ろうべん)の後継者と言われていました。781年(天応元年)2月に同母姉・能登内親王が亡くなり、同年4月に父・光仁天皇が病気を理由に譲位し、同母兄・山部親王が第50代・桓武天皇(かんむてんのう)に即位すると父・光仁天皇の勧めで還俗して立太子(皇太弟)されたが、同年12月に父・光仁天皇が崩御しました。ちなみに同母兄・桓武天皇には774年(宝亀5年)に第1皇子で、第51代・平城天皇(へいぜいてんのう)となる安殿親王(あてしんのう)が生まれていました。785年(延暦4年)9月に長岡京(ながおかきょう)で同母兄・桓武天皇の寵臣で、造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺される藤原種継暗殺事件が起こり、暗殺犯とされる大伴竹良(おおともたけら)や春原五百枝(はるはらのいおえ)・大伴継人(おおとものつぐひと)・大伴真麻呂(おおとものままろ)らが捕縛され、その犯人らに連座して皇太子を廃され、長岡京市・乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されました。その後無実を訴える為に十余日絶食し、785年(延暦4年)11月8日に淡路国に配流される途中の河内国高瀬橋付近(大阪府守口市)で憤死し、遺骸は淡路国まで運ばれて葬られました。その後皇太子・安殿親王や桓武天皇の皇后など皇族や貴族が病気なったり、疫病の流行や洪水などの災害が起こったりするなどの悪疫(あくえき)が続き、早良親王の祟りと恐れられ、度々鎮魂の儀式が行われました。800年(延暦19年)に同母兄・桓武天皇が早良親王の怨霊を慰める為に崇道天皇(すどうてんのう)の追号を贈り、805年(延暦24年)に早良親王の遺骸を淡路国から大和国に移葬し、奈良市八島町の崇道天皇陵・八島陵(やしまのみささぎ)に葬りました。
●御霊神社早良神社は本殿が一間社(いっけんしゃ)流見世棚造(ながれみせだなづくり)の板葺(いたぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
見世棚造は土台の上に組まれ、正面に階段のない間口が一間ぐらいの小さな社殿です。見世棚造は神社の末社などに使われます。
板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
御霊神社