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博西神社本殿・博西神社見どころ(修学旅行・観光)
博西神社本殿
●博西神社本殿は1958年(昭和33年)5月14日に国の重要文化財に指定されました。
●博西神社本殿は戦国時代(室町時代後期)の1538年(天文7年)に建立されました。本殿は北殿・南殿から構成され、北殿に下照比売命(したてるひめ)、南殿に菅原道真(すがわらのみちざね)を祀っています。
下照比売命は日本最古の歴史書「古事記・712年(和銅5年)編纂」によると大国主神(おおくにぬしのかみ)と多紀理毘売命(たきりびめのみこと)の娘で、阿遅すき高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)の妹とされています。日本最古の正史「日本書紀・720年(養老4年)完成」では父は大国主神の別称である顕国玉神(うつしくにたまのかみ)とされています。下照比売命は葦原中国(あしはらのなかつくに)平定の為に高天原(たかまがはら)から遣わされた天若日子(あめのわかひこ)と結婚しました。天若日子は葦原中国を得ようと企んで、高天原に戻らなかったことから天照大神(あまてらすおおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は雉の鳴女(きじのなきめ)を遣したが、天若日子は高御産巣日神から与えられた弓矢で雉の鳴女を射抜き、その弓矢が高天原まで飛んで行きました。高御産巣日神が邪心があれば当たるようにと誓約して弓矢を戻すと弓矢は天若日子の胸に刺さって亡くなり、下照比売命の泣き声が高天原まで届いたと言われています。その泣き声で天若日子の父・天津国玉神(あまつくにたまのかみ)が葦原中国に降りて喪屋を建て、下照比売命の兄・阿遅すき高日子根神が訪れて来たが、天若日子に間違われたことに怒り、喪屋を神度剣(かむどのつるぎ・大量(おおはかり))で斬り倒し、蹴り飛ばして去りました。下照比売命は兄・阿遅すき高日子根神の名を明かす歌を詠み、その歌は夷振(ひなぶり)と言われました。
菅原道真は845年(承和12年)6月25日(旧暦8月1日)に公家・菅原是善と母・伴真成の娘の三男として生まれました。幼少の頃から和歌・漢詩に優れ、862年(貞観4年)に18歳で官僚育成機関である大学寮で紀伝道を専攻する文章生試験に合格し、867年(貞観9年)に文章生から2名が選ばれる文章得業生になり、正六位下・下野権少掾に叙任されました。877年(元慶元年)に式部少輔・文章博士になりました。880年(元慶4年)に父・菅原是善が亡くなると祖父・菅原清公以来の私塾・菅家廊下を主宰しました。886年(仁和2年)に讃岐守に任命されて讃岐国に下向したが、890年(寛平2年)に第59代・宇多天皇の側近として帰京し、893年(寛平5年)に参議・式部大輔に任ぜられ、国政を担う公卿に列しました。899年(昌泰2年)に右大臣に任命され、901年(延喜元年)に従二位に叙せられました。しかしその直後に左大臣・藤原時平の讒言により、太宰府に左遷され、子供も流刑に処されました。その後903年(延喜3年)3月25日に太宰府で亡くなりました。死後に京都で悪疫が続き、930年(延長8年)に清涼殿落雷事件も起こり、菅原道真の怨霊の仕業と恐れられました。朝廷は923年(延喜23年)に左遷を撤回し、官位を右大臣に復して正二位を贈り、947年(天暦元年)に菅原道真を祀る北野天満宮が創建され、993年(正暦4年)5月に正一位・左大臣を追贈し、同年10月に太政大臣を追贈しました。
●博西神社本殿は北殿・南殿から構成され、北殿・南殿は二棟連結式で、いずれも一間社(いっけんしゃ)春日造(かすがづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
春日造は切妻造(きりづまづくり)の妻入(つまいり)で、正面に庇(ひさし)である階隠(はしかくし)を設け、屋根上(棟)に置き千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が付けられています。春日造は仏教建築の影響を受け、奈良時代中期に現れたとも言われています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
博西神社