般若寺経蔵・般若寺見どころ(修学旅行・観光)

般若寺経蔵

●般若寺経蔵は1969年(昭和44年)6月20日に国の重要文化財に指定されました。
●般若寺経蔵は鎌倉時代後期(1275年~1332年)に建立されました。経蔵は解体修理が行われ、建立当初は経蔵ではなく、全面開放で、土間床の建物として建立されていたということが分かりました。ただその用途は不明です。その後鎌倉時代末期に経蔵に改造されたと言われています。ちなみに鎌倉時代末期には南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府打倒を目指す元弘の乱(げんこうのらん)が起こり、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)も参戦したが、京都・笠置山(かさぎやま)が鎌倉幕府軍の攻撃によって陥落すると般若寺に潜伏し、経蔵の中にあった唐櫃(からびつ)に隠れ、鎌倉幕府軍の探索から逃れられたと言われています。経蔵では「一切経(いっさいきょう)」を収納していました。「一切経」は仏教の数学研究に利用され、毎年4月25日(旧暦3月)の文殊会式(もんじゅえしき)では一週間掛けて転読供養(てんどくくよう)が営まれ、滅罪生善(めつざいしょうぜん)の利益を授けていました。
一般的に経蔵は寺院で「一切経」などの経典を納める蔵です。経蔵は経堂・経楼とも言われています。
「一切経」は仏教の経典を総集したものです。「一切経」は経蔵(きょうぞう・仏の教説集)・律蔵(りつぞう・仏弟子の生活規範)・論蔵(ろんぞう・インド仏教学者による経の解釈)の三蔵(さんぞう)を中心にそれらの注釈書などを加えたものです。「一切経」には古代インドの標準的文章語である梵語(ぼんご・サンスクリット語)・古代中西部インドのパーリ語の原典にチベット語・中国語・蒙古語・満州語などの訳本があります。「一切経」は「大蔵経(だいぞうきょう)」とも言われています。
大塔宮護良親王は1308年(延慶元年)に第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)となる尊治親王(たかはるしんのう)の第3皇子(第1皇子)として生まれたと言われています。1318年(文保2年)に梶井門跡(かじいもんぜき・三千院門跡)に入寺し、1325年(正中2年)に門跡を継承して門主になり、1327年(嘉暦2年)に天台座主(てんだいざす)になりました。後醍醐天皇による2度目の鎌倉幕府討幕(元弘の変(げんこうのへん))の際、弟・尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)とともに八王子に布陣したが、鎌倉幕府軍に敗れ、楠木正成(くすのきまさしげ)が籠もる赤坂城に逃れました。その後赤坂城が落城すると十津川・熊野などに逃れ、畿内の地侍などを組織しました。1332年(正慶元年・元弘2年)に還俗して護良親王と改名し、吉野で挙兵して鎌倉幕府討幕の令旨(りょうじ)を各地に送りました。河内信貴山に進軍し、赤松則村(あかまつのりむら)による六波羅探題(ろくはらたんだい)攻撃を援助しました。1333年(正慶2年・元弘3年)に後醍醐天皇が京都に戻ると征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になって兵部卿(ひょうぶきょう)に任じられました。その後室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、捕縛されて鎌倉に流罪となって幽閉され、1335年(建武2年)に北条時行(ほうじょうときゆき)が鎌倉へ侵攻した際、同年8月12日に尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)の家人・淵辺義博(ふちべよしひろ)によって殺害されました。
●般若寺経蔵は桁行三間・梁間二間で、切妻造(きりつまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
般若寺

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