長谷寺本長谷寺・長谷寺見どころ(修学旅行・観光)

長谷寺本長谷寺

●長谷寺本長谷寺は飛鳥時代の686年(朱鳥元年)に僧・道明が第40代・天武天皇の勅願によって精舎を建立したと言われています。僧・道明は第40代・天武天皇の病気平癒の為、銅板法華説相図(どうばん ほっけせっそうず・千仏多宝仏塔(せんぶつたほうぶっとう))を鋳造し、本尊として安置しました。
僧・道明は六人部(むとべ )氏として生まれたとも言われています。その後奈良・川原寺(かわらでら・弘福寺(ぐふくじ))の僧侶・住持(じゅうじ・住職(じゅうしょく))になりました。川原寺は飛鳥寺(あすかでら・法興寺(ほうこうじ))・薬師寺(やくしじ)・大官大寺(だいかんだいじ・大安寺(だいあんじ))とともに飛鳥の四大寺に数えられたが、1070年(延久4年)・1191年(建久2年)など度々焼失し、鎌倉時代に再興されたが、その後衰微し、室町時代末期の雷火で再び焼失し、その後再建されることなく廃寺になったとも言われています。686年(朱鳥元年)に徳道・沙弥らを率いて初瀬山の西の丘(本長谷寺)に三重塔を建立したと言われています。また近江国(滋賀県)高嶋郡白蓮華谷にあった霊木を用いて、十一面観音像を造仏したとも言われています。
第40代・天武天皇は第34代・舒明天皇と第35代・皇極天皇(第37代・斉明天皇)の子として生まれました。若い頃から兄・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と行動を共にし、いずれも兄・中大兄皇子の娘であるう野讃良皇女(うののさららのひめみこ・持統天皇)・大田皇女(おおたのひめみこ)・大江皇女(おおえのひめみこ)・新田部皇女(にいたべのひめみこ)を妻としました。668年(天智天皇7年)に兄・中大兄皇子が第38代・天智天皇に即位すると皇太弟として政治を助けました。その後甥で、第38代・天智天皇の第1皇子・大友皇子(おおともおうじ)が成人すると皇嗣(こうし)問題が起こって対立し、671年(天智天皇10年)に甥・大友皇子が太政大臣になると政権から疎外されて対立が決定的になりました。同年秋に兄である第38代・天智天皇が病気に臥したことから後事を託そうとしたが、陰謀のあることを知り、剃髪して吉野に引き籠りました。同年末に兄である第38代・天智天皇が近江大津宮(おうみおおつのみや)で崩御し、その後甥・大友皇子が第39代・弘文天皇に即位したとも言われています。翌672年(天武天皇元年)6月の壬申の乱(じんしんのらん)で少数の舎人らと挙兵し、近江大津宮に攻め入り、甥である第39代・弘文天皇が自害して崩御しました。673年(天武天皇2年)に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し、兄である第38代・天智天皇の皇女・う野讃良皇女(持統天皇)を皇后としました。第40代・天武天皇は八色の姓(やくさのかばね)で氏姓制度を再編したり、律令制の導入に向けて制度改革を進めたりしました。日本に最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」・日本最古の歴史書「古事記(こじき)・712年(和銅5年)編纂」の編纂が開始されました。なお第40代・天武天皇は686年(朱鳥元年)10月1日に崩御しました。
長谷寺見どころ

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