長谷寺鐘楼・長谷寺見どころ(修学旅行)

長谷寺鐘楼

●長谷寺鐘楼は1986年((昭和61年)12月20日に国の重要文化財に指定されました。
●長谷寺鐘楼は江戸時代前期の1650年(慶安3年)に建立されました。長谷寺鐘楼は仁王門から登廊を上がった場所にあります。平安時代末期から鎌倉時代初期の公家・歌人で、「小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)」の撰者である藤原定家(ふじわらのていか)が「年を経ぬ 祈る契(ちぎり)は 初瀬山(はつせやま) 尾上の鐘の よその夕暮れ」と詠んだことに因んで、「尾上(おのえ)の鐘」とも言われています。なお長谷寺では毎日、午前6時と正午に梵鐘が撞かれ、正午には梵鐘と同時に修行中の僧侶がほら貝を吹きます。
一般的に鐘楼は梵鐘を吊るす堂塔です。鐘楼は金堂(こんどう)・塔・講堂・経蔵・僧坊・食堂(じきどう)とともに七堂伽藍(しちどうがらん)と言われています。鐘楼は寺院で時刻や非常を告げる施設として設けられ、梵鐘の響きは功徳(くどく)になるとされました。鐘楼は古くは金堂の背後に経蔵と対し、一般に太鼓を置いた鼓楼(ころう)に対して伽藍の両翼を建立されました。鐘楼は古代中国の様式を模し、上下2層からなる楼造(たかどのづくり)の法隆寺(ほうりゅうじ)西院伽藍の鐘楼(平安時代)が唯一残された古式の鐘楼遺構と言われています。その後法隆寺東院の鐘楼(鎌倉時代)のように下層が裾(すそ)広がりの袴腰造(はかまごしつくり)や東大寺(とうだいじ)の鐘楼(鎌倉時代)のように四隅に柱を立て、四方を吹き放した吹放(ふきはなし)などの鐘楼が現れました。鐘楼は現在、高い土台の上に四本柱を立て、四方を吹抜きにしたものが一般的です。なお鐘楼は鐘撞堂・釣鐘堂などとも言われています。
かつて鐘楼に吊られている梵鐘は「未来鐘(みらいがね)」とも言われています。昔々貧しいが、信心深い山城の国(京都府)に住む男が毎月長谷寺にお参りしていました。ある時、男は僧侶・慈願(じがん)と梵鐘が小さいことを話し、将来願いが叶ったら大きな梵鐘を奉納すると言いました。周りの人々は今ではなく、未来のことかと男を「未来男」として馬鹿にし、笑いました。その後男は観音様の霊験により、近江(滋賀県)の国司代(こくしだい)まで出世し、約束通りに大きな梵鐘を奉納したことから梵鐘は「未来鐘」と言われるようになりました。なお「未来鐘」はその後焼失し、現在の梵鐘が寄進されたそうです。
●長谷寺鐘楼は桁行一間・梁間一間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
長谷寺見どころ

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