氷室神社歴史-修学旅行・観光ポイント
氷室神社歴史の簡単まとめ
氷室神社歴史を簡単にマトメてポイント解説します。氷室神社は710年(和銅3年)に元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を祀ったのが起源と言われています。月日磐では氷を作って氷室に貯蔵し、献氷されたそうです。なお氷室神社歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(蓮台野)】
★吉城川(よしきがわ)は水谷川(みずたにがわ)の下流部です。水谷川は三笠山(若草山)と御蓋山(春日山)の間にある春日山原始林(世界遺産)を源とし、下流部で吉城川と名前を変え、大和川(やまとがわ)水系の佐保川(さほがわ)に注いでいます。吉城川は奈良県景観資産に選ばれています。
【氷室神社創建(起源・由来)】
★氷室神社は社伝によると奈良時代初期の710年(和銅3年)に第43代・元明天皇(げんめいてんのう)の勅命により、吉城川上流部に位置する春日の御蓋(みかさ)の御料山(春日山)月日磐に氷神を祀ったのが起源とも言われています。月日磐では厳冬時期に氷を作って氷室に貯蔵し、春から夏に献氷されたそうです。ちなみに氷室神社の由緒は「氷室神社縁起(えんぎ)」・「続日本紀(しょくにほんぎ)・平安時代初期編纂」・「元要記」に記されています。なお春日野にある氷池(奈良春日野国際フォーラム 甍~I・RA・KA~一帯)で氷が作られ、を氷室(浅茅ヶ原一帯)に貯蔵しました。氷室は平城氷室・御蓋氷室・春日の氷室などとも言われ、平城七朝(第43代・元明天皇、第44代・元正天皇(げんしょうてんのう)、第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)、第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう)、第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう)、第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)、第49代・光仁天皇(こうにんてんのう))に利用されました。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事・事件】
★711年(和銅4年)に初めて献氷の勅祭が行われました。毎年4月1日から9月30日に平城京に氷を献上しました。なお氷室神社では春迎えの祭りも行って、順調な気候の推移と豊作も祈願したそうです。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事・事件】
★794年(延暦13年)に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)が平安京に遷都すると平城七朝・70余年間継続した氷室・献氷が廃止されました。
★860年(貞観2年)に氷室神社が現在の場所に移され、闘鶏稲置大山主命(つげのいなぎおおやまぬしのみこと)に左右二神(額田大仲彦命(ぬかたのおおなかつひこのみこと)・大鷦鷯命(おおささぎのみこと))を配神として祀り、三座になりました。闘鶏稲置大山主命は氷の作り方を教え、額田大仲彦命は天皇に氷を始めて献上、大鷦鷯命は天皇に氷を献上されたとされています。氷室神社は春日大社(かすがたいしゃ)の別宮になり、式年の営繕費・年中の祭礼などは春日大社と春日大社の実権を握っていた興福寺(こうふくじ)の朱印高2万石と社頭所禄・三方楽所料2千石の一部によって賄われました。
★1001年(長保3年)に唐楽(とうがく)の伴奏による左舞(さまい)と楽の奉行を命ぜられた狛光高(こまのみつたか)を祖として、南都楽所(なんとがくそ)が成立したと伝えられています。
★1117年(永久5年)9月1日に例祭が悪疫鎮止の為に始められたと言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事・事件】
★鎌倉時代に日本三楽所に数えられた南都楽所が氷室神社に置かれ、氷室神社が奈良における舞楽(ぶがく)の一大拠点に成長し、楽人(がくじん)が神職を務めるようになりました。本殿東側には南都楽所の祖・狛光高宿禰(こまのみつたかのすくね)を祀る舞光社が建立されています。なお鎌倉時代に木造舞楽面「陵王(りょうおう)」が制作されました。「陵王」は木造彩色で、長さ約29.5センチ・幅約24センチです。「陵王」は奈良国立博物館に寄託されています。
★1217年(建保5年)に社殿が建立されました。また同年に源平の戦いにより、一時絶えていた例祭が南都楽所の氏神として、順徳天皇が再興し、日の使い(ひのつかい)も参向したと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事・事件】
★1402年(応永9年)に内裏の日華門が移築され、表門(奈良県指定有形文化財)が建立されました。また同年に内裏の御輿宿が移築され、東御廊(奈良県指定有形文化財)・西御廊(奈良県指定有形文化財)が建立されました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事・事件】
★1641年(寛永18年)に内裏の日華門の扉と金5枚が下賜されました。
★文久年間(1861年~1864年)に本殿(奈良県指定有形文化財)が再建されました。本殿は三間社流造(さんがんしゃながれづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)です。
★江戸時代に舞楽を上演する拝殿(奈良市指定有形民俗文化財)が建立されました。拝殿はかつて南都楽所の中心でした。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事・事件】
★明治維新後の神仏分離令により、興福寺との関係がなくなりました。氷室神社は氏子や冷凍氷業界の奉賛によって維持されています。なお明治時代に氷室神社が村社に列せられ、神饌幣帛料供進社になりました。
★1870年(明治3年)に南都楽所が廃止され、他の二つの楽所(大阪・京都)とともに宮内省雅楽部(宮内庁式部職楽部)が設立されました。ただ上京せず地方に残った楽人もおり、独自の伝承も残されました。戦後、奈良流を重んじる有志により、南都晃耀会が結成されました。
★1877年(明治10年)に招魂社が認可され、9月21日に祖霊が勧請されました。1889年(明治22年)に西南戦争で亡くなった戦没者を合祀しました。
★2020年(令和2年)に鳳輦(ほうれん)の修復を記念し、58年振りに渡御が復活しました。氷室神社ではかつて興福寺の一乗院宮邸が御旅所とされ、鳳輦が渡御して御旅所祭が行われていました。その渡御の途上に道楽と称して奏楽しながら練り歩いたと言われています。明治維新後は興福寺の南大門跡が御旅所とされ、その後氏子区域を鳳輦が巡行していたが、1962年(昭和37年)に途絶えました。
【第43代・元明天皇:氷室神社創建】
第43代・元明天皇は661年(斉明天皇7年)に第38代・天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の娘・姪娘(めいのいらつめ)の第4皇女として生まれました。679年(天武天皇8年)頃に第40代・天武天皇と第41代・持統天皇の第2皇子で、1歳年下である甥・草壁皇子(くさかべのみこ)と結婚し、680年(天武天皇9年)に氷高皇女(第44代・元正天皇)、683年(天武天皇12年)に珂瑠皇子(第42代・文武天皇)を産みました。689年(持統天皇3年)に夫で、皇太子・草壁皇子が即位することなく亡くなり、姉で、義母である第41代・持統天皇の即位を経て、697年(文武元年)に息子・珂瑠皇子(第42代・文武天皇)が即位したが、707年(慶雲4年)に25歳で崩御しました。第42代・文武天皇の第1皇子で、孫・首皇子(第45代・聖武天皇)が幼かったことから第43代・元明天皇が即位し、首皇子がまだ若かったことから娘・氷高皇女(第44代・元正天皇)に譲位しました。第43代・元明天皇は721年(養老5年)に崩御しました。
【氷室神社 備考】
*参考・・・氷室神社(アクセス・見どころ・・・)ホームページ