法華寺浴室・法華寺見どころ(修学旅行・観光)

法華寺浴室

●法華寺浴室は2005年(平成17年)2月21日に重要有形民俗文化財に指定されました。
●法華寺浴室(からふろ)は江戸時代中期の1766年(明和3年)に再建されました。浴室には奈良時代前期に第45代・聖武天皇の皇后・光明皇后が「我自ら千人の垢を去らん」と発願し、千人の垢を自ら流したという伝説が残されています。ちなみに尼僧・僧侶ではなく、庶民の福祉施設として利用したとも言われています。浴室は湯に浸かるのではなく、蒸し風呂(サウナ)として利用しました。内部には東側に竈(かまど)・西側に風呂屋形(やかた)があり、薬草を用いて湯を沸かし、蒸気で沐浴潔斎しました。竈は大小2基で、直径約70センチの大竈は風呂屋形に蒸気を送り、小竈では薬草を煮ました。法華寺では昭和初期まで夏と冬に使われていたそうです。なお浴室は昭和初期の室戸台風で竃が損傷し、2003年(平成15年)7月~9月に半解体修理が行われました。
光明皇后の伝説は次の通りです。光明皇后は自ら999人の垢を流し、1,000人目を迎えたが、その1,000人目は全身がかさぶたで被われた癩者で、躊躇われました。しかし病人の申し出通りに光明皇后が自ら膿を吸ったところ病人の体はみるみる美しくなり、大光明を放って昇天しました。病人は阿しゅく如来の化身だったと言われています。なお阿しゅく如来は大日如来(だいにちにょらい)・藥師如来(やくしにょらい)・宝生如来(ほうしょうにょらい)・阿弥陀如来(あみだにょらい)・不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)とともに五智如来(ごちにょらい・金剛界五仏)に数えられています。
光明皇后(こうみょうこうごう・安宿媛(あすかべひめ))は飛鳥時代後期の701年(大宝元年)に藤原不比等(ふじわらのふひと)と県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)の三女として生まれました。その後皇太子であった第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)と結婚し、非皇族初の皇后(第45代・聖武天皇の妻)になりました。奈良時代前期の718年(養老2年)に第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう)と第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)となる阿倍内親王(あべないしんのう)を産み、724年(神亀元年)の第45代・聖武天皇の即位とともに後宮(こうきゅう)の位階・夫人号を賜りました。727年(神亀4年)11月16日に皇太子・基王(基皇子(もといのみこ))を産んだが、728年(神亀5年)10月20日に亡くなりました。長屋王(ながやおう)の変後の729年(天平元年)8月10日に皇后の詔が発せられました。749年(天平勝宝元年)に夫で、第45代・聖武天皇が娘・阿倍内親王(第46代・孝謙天皇)に譲位し、756年(天平勝宝8年)5月2日に第45代・聖武天皇が崩御し、760年(天平宝字4年)7月27日に光明皇后も亡くなりました。光明皇后は第45代・聖武天皇とともに仏教に深く帰依し、第45代・聖武天皇による国分寺・国分尼寺建立や大仏造立を助けるだけでなく、社会福祉にも尽力し、病院に当たる施薬院(せやくいん)や貧窮者・孤児の為の悲田院(ひでいん)などを設置しました。
●法華寺浴室は桁行三間・梁間二間で、切妻造(きりづまづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。浴室は総高約4メートル・横幅約6メートル・奥行約4メートルです。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
法華寺見どころ

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