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法華寺鐘楼・法華寺見どころ(修学旅行・観光)
法華寺鐘楼
●法華寺鐘楼は1953年(昭和28年)3月31日に国の重要文化財に指定されました。
●法華寺鐘楼は安土桃山時代(江戸時代初期)の1602年(慶長7年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室・淀殿(よどどの)とその子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が再建したと言われています。鬼瓦には「1602年(慶長7年)」の銘が刻まれ、いずれも重要文化財である本堂・南門と同時期に淀殿らが再建したと言われています。鐘楼には前身の建物とみられる古い部材が一部使われています。鐘楼は細部に桃山時代の建築様式がみられ、軒が大きく反り、末広の袴腰(はかまごし)になっています。鐘楼は二層で、上層に梵鐘を吊るすが、上層に縁・高欄(こうらん)が設けていません。
淀殿(淀君)は1569年(永禄12年)に浅井氏3代目・浅井長政と織田信長の妹・市の長女・浅井茶々として生まれました。1570年(元亀元年)に伯父・信長が朝倉への不戦の誓いを破り、朝倉氏を攻撃すると父・長政は同盟を破棄し、織田・徳川連合軍を急襲しました。1573年(天正元年)に伯父・信長が父・長政の居城・小谷城を攻撃すると母・市と妹の初・江とともに救出されました。1582年(天正10年)の本能寺の変後に母・市が柴田勝家と再婚し、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで義父・勝家が関白・豊臣秀吉に敗れ、母・市とともに自害したが、淀殿と2人の妹は秀吉に保護されました。1588年(天正16年)頃に秀吉の側室になり、1589年(天正17年)に捨(鶴松)を生んだが、1591年(天正19年)に亡くなりました。1593年(文禄2年)に拾(豊臣秀頼)を生み、1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなりました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで江戸幕府初代将軍・徳川家康が勝利し、その後家康と対立するようになり、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で子・秀頼らととともに自害しました。
豊臣秀頼は1593年(文禄2年)に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿の間の第2子として大坂城で生まれました。秀頼は秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政が拾い上げました。秀吉は秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に秀次の関白職を奪って自刃させ、秀頼の継嗣としての地位を確定させました。秀頼は秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年に秀吉が死去すると秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の子・千姫と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)に淀殿らとともに自害しました。
一般的に鐘楼は梵鐘を吊るす堂塔です。鐘楼は寺院で時刻や非常を告げる施設として設けられ、梵鐘の響きは功徳(くどく)になるとされました。
●法華寺鐘楼は桁行三間・梁間二間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。鐘楼は袴腰(はかまごし)付きです。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
法華寺見どころ