法華寺横笛堂・法華寺見どころ(修学旅行・観光)

法華寺横笛堂

●法華寺横笛堂は赤門(東門)を出たすぐ近くにある飛地境内に建立されていたが、その後赤門東側に移されました。横笛堂は室町時代以前に建立され、境内で最も古い建物です。内部の装飾には鎌倉時代の様式が見られます。横笛堂は元々阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊として安置し、阿弥陀信仰の一端を担っていたが、現在本堂に安置されている横笛像を安置していたことから「横笛堂」と言われるようになりました。ちなみに横笛堂では「平家物語」で悲恋のヒロインとされた横笛が尼僧になって住み、横笛が書き損じた手紙の反故(ほご)で自らの姿を作ったという張り子の横笛像(高さ約30センチ)が安置されていました。
横笛は平清盛(たいらのきよもり)の娘で、第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)の皇后(中宮)、そして第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)の生母である建礼門院(けんれいもんいん・平徳子(たいらのとくし)の召使いである雑仕女(ぞうしめ)でした。横笛は和歌・管弦・今様などに秀で、平清盛が催した西八条殿での花見の宴で舞いを披露しました。その舞姿に平清盛の嫡男・平重盛(たいらのしげもり)の家来・斎藤時頼(さいとうときより・滝口入道(たきぐちにゅうどう))が思いを寄せ、やがて二人は愛し合いました。しかし斎藤時頼の父・斎藤茂頼(さいとうしげより)が横笛の身分の低さから反対し、横笛と父の間で思い悩んだ斎藤時頼は嵯峨の往生院(おうじょういん・滝口寺(たきぐちでら))で出家して僧侶になりました。横笛は往生院を尋ねたが、斎藤時頼は会うことを拒んだことから和歌「山深み 思い入りぬる 紫の 戸のまことの道に 我を導け」と詠みました。和歌を見た斎藤時頼は再度横笛が訪ねてくると拒めないと思い、女人禁制の高野山静浄院に移りました。横笛は斎藤時頼を慕って尼僧になり、斎藤時頼と会えない悲しみから儚い生涯を終えました。ちなみに横笛は大堰川に身を投げたとも、病に倒
れたとも言われています。それを知った斎藤時頼は仏道に励み、高野聖(こうやひじり・遊行僧)になりました。斎藤時頼は高野山真言宗別格本山・大円院の8代住職になったと言われています。また1184年(元暦元年)には紀州勝浦で入水した平重盛の嫡男・平維盛(たいらのこれもり)に立ち会ったとも言われています。
阿弥陀如来は大乗仏教の如来のひとつで、西方の極楽浄土(ごくらくじょうど)の教主とされています。阿弥陀如来は生あるものを全てを救う如来とされています。
●法華寺横笛堂は桁行三間・梁間三間で、切妻造(きりつまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
法華寺見どころ

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