法隆寺伝法堂・法隆寺見どころ

●法隆寺伝法堂は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●法隆寺伝法堂は奈良時代(710年~794年)に第45代・聖武天皇の夫人・橘古那可智(たちばなのこなかち)の住宅を仏堂に改造して建立されました。法隆寺伝法堂は当時として珍しい床が板張りで、天井は天井板を張らない化粧屋根裏(けしょうやねうら)です。法隆寺伝法堂は中の間・東の間・西の間にそれぞれ乾漆阿弥陀三尊像(重要文化財)などを安置しています。なお法隆寺伝法堂は奈良時代の貴族住宅で唯一の遺構とも言われています。
一般的に仏堂は寺院で仏像を安置し、礼拝供養する為の堂塔です。仏堂は紀元前2世紀頃にお釈迦様の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を祀る塔とともに建立されるようになり、日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・奈良時代成立」に仏堂を表す「仏殿」が記されています。なお仏堂は仏殿などとも言われています。
橘古那可智(橘夫人)は生年不詳です。橘古那可智は女官・県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の孫娘、佐為流の始祖・橘佐為(たちばなのさい)の娘として生まれました。奈良時代の737年(天平9年)2月に無位から従三位に叙され、この時期に第45代・聖武天皇の夫人になったとも言われています。また父・橘佐為も従四位上から正四位下に昇進しました。749年(天平21年)に正三位から従二位に昇進し、その後正二位に昇進しました。757年(天平宝字元年)に公卿・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を滅ぼし、藤原仲麻呂の擁立した皇太子・大炊王(おおいおう(第47代・淳仁天皇))の廃太子を企てた橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)の直後に妹・橘真都賀(たちばなのまつが)や同族とともに橘氏を改めて広岡朝臣(ひろおかあそん)の氏姓を賜りました。橘古那可智は759年(天平宝字3年)7月5日に亡くなりました。なお橘古那可智は仏教に篤く帰依し、韓櫃(からびつ・唐櫃)などの調度・「大般若経(だいはんにゃきょう)」・「薬師経(やくしきょう)」などを法隆寺に施入したり、刀子(とうす)・琥碧誦数(こはくのじゅず)を東大寺大仏開眼法会(だいぶつかいげんほうえ)に献じたりしました。また大和国添上郡広岡(奈良県奈良市法蓮町)の普光寺(ふこうじ)は第45代・聖武天皇の為に建立したと言われています。
第45代・聖武天皇は701年(大宝元年)に第42代・文武天皇と藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の間に第1皇子として生まれました。714年(和銅7年)に元服して立太子され、724年(神亀元年)に第44代・元正天皇から譲位されて天皇に即位しました。その後皇族皇后の慣習を破って、藤原不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ・光明子(こうみょうし))を非皇族初の皇后(光明皇后)にしました。第45代・聖武天皇は仏教に深く帰依し、国分寺・国分尼寺建立の詔 (こくぶんじ・こくぶんにじこんりゅうのみことのり)や大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)を発し、749年(天平勝宝元年)に娘・阿倍内親王(あべないしんのう(第46代・孝謙天皇 第48代・称徳天皇))に譲位して出家し、756年(天平勝宝8年)5月2日に56歳で崩御しました。ちなみに第45代・聖武天皇は生前譲位した初の男性天皇とされています。
一般的に化粧屋根裏は平らな天井を張らず、梁(はり)・垂木(たるき)・木舞(こまい)などの屋根裏の構成を室内に見せた天井です。化粧屋根裏は茶室などに用いられています。
法隆寺見どころ(西院伽藍)法隆寺見どころ(東院伽藍等)

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