法隆寺絵殿及舎利殿・法隆寺見どころ(修学旅行)

●法隆寺絵殿及舎利殿は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●法隆寺絵殿及舎利殿は鎌倉時代前期の1219年(承久元年)に建立されたと言われています。法隆寺絵殿及舎利殿は桁行七間・梁間三間で、切妻造の本瓦葺です。法隆寺絵殿及舎利殿は東側が聖徳太子が2才の春の2月15日に東に向って合掌し、「南無仏(なむぶつ)」と唱えるとその掌中からこぼれ落ちたとも言われている舎利(釈迦の遺骨)一粒を安置し、舎利殿と言われています。西側が聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められ、絵殿と言われています。なお絵殿にはかつて平安時代後期の1069年(延久元年)に摂津の絵師・秦致貞(はたのむねさだ)が描いた聖徳太子絵伝の障子絵が飾られていたが、1878年(明治11年)に皇室に献上され、現在は「綾本著色聖徳太子絵伝(りょうほんちゃくしょくしょうとくたいしえでん)・法隆寺献納宝物(国宝)」として東京国立博物館に収蔵されています。
仏舎利は入滅したお釈迦さまが荼毘に付された際の遺骨を指します。お釈迦さま(釈迦牟尼 ゴータマ・シッダッタ)は仏教の開祖で、世界四聖の一人です。ちなみに仏陀とは悟った者・目覚めた者を意味するお釈迦様の尊称です。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。お釈迦さまの遺骸は火葬され、遺骨は各地のストゥーパに分けて祀られたそうです。
聖徳太子は古墳時代の574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人(あなほべのはしひとのひめみこ)の第2皇子として生まれました。聖徳太子は父母がいずれも第29代・欽明天皇を父とする異母兄妹で、兄弟婚によって生まれました。聖徳太子は幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になり、第30代・敏達天皇から第33代・推古天皇までの4代に仕えて権勢を振るった蘇我馬子(そがのうまこ)ととともに天皇を補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階(かんいじゅうにかい)・604年(推古天皇12年)に十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として派遣したりしました。また聖徳太子は仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)と言われる法隆寺(ほうりゅうじ)・四天王寺(してんのうじ)などの寺院を創建したり、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は飛鳥時代の622年(推古天皇30年)2月22日に斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなりました。
「綾本著色聖徳太子絵伝(りょうほんちゃくしょくしょうとくたいしえでん)10面・法隆寺献納宝物(国宝)」はかつて障子絵だったが、江戸時代に屏風に改装されました。縦約185センチ・横約136センチの大画面に山水・樹木・宮殿・寺社などを配し、その間に聖徳太子の諸事跡が描かれています。損傷が大きく、後世に補筆されているが、平安時代に遡る大和絵障壁画の遺品と言われています。
法隆寺見どころ(西院伽藍)法隆寺見どころ(東院伽藍等)

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