法隆寺上御堂・法隆寺見どころ(修学旅行)

●法隆寺上御堂は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財に指定されました。
●法隆寺上御堂は鎌倉時代後期の1318年(文保2年)に再建されました。法隆寺上御堂はかつて奈良時代に第40代・天武天皇の皇子・舎人親王(とねりしんのう)の発願によって建立されたが、平安時代中期の989年(永祚元年)に倒壊し、1318年(文保2年)に再建されました。
舎人親王は飛鳥時代の676年(天武天皇5年)に第40代・天武天皇と新田部皇女(にいたべのひめみこ)の第3皇子として生まれました。695年(持統天皇9年)に浄広弐に叙せられ、701年(大宝元年)の大宝令の制定に伴う位階制度の移行によって二品(にほん)になり、718年(養老2年)に一品(いっぽん)に昇叙されました。奈良時代の719年(養老3年)に第44代・元正天皇から異母弟・新田部親王(にいたべしんのう)とともに皇太子・首皇子(第45代・聖武天皇)の補佐を命じられ、皇室の年長者として褒賞され、内舎人(うどねり)・大舎人(おおとねり)・衛士(えいし)・封戸(ふこ)を賜りました。720年(養老4年)に編集を総裁した日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)」を奏上しました。720年(養老4年)に右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)が亡くなると太政官を統括する知太政官事(ちだいじょうかんじ)に就任し、知五衛及授刀舎人事(ちごえいおよびじゅとうとねりじ)・新田部親王と左大臣・長屋王(ながやおう)とともに皇親政権を樹立しました。724年(神亀元年)に第44代・聖武天皇が即位すると藤原氏寄りに傾斜し、729年(神亀6年)の長屋王の変で長屋王を糾問して自害させ、藤原不比等の娘で、第44代・聖武天皇の皇后・光明子(こうみょうし)の立后の勅を宣べました。なお舎人親王は735年(天平7年)に亡くなり、758年(天平宝字2年)に舎人親王の第7王子の大炊王(おおいおう)が第47代・淳仁天皇に即位すると翌759年(天平宝字3年)に第47代・淳仁天皇の父として崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)に追号されました。。
●法隆寺上御堂は桁行七間・梁間四間で、入母屋造の本瓦葺です。法隆寺上御堂には平安時代の釈迦三尊像(国宝)・室町時代の四天王像(重要文化財)が安置されています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
法隆寺見どころ(西院伽藍)法隆寺見どころ(東院伽藍等)

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