法隆寺経蔵・法隆寺見どころ(修学旅行)

法隆寺経蔵

●法隆寺経蔵は1899年(明治32年)4月5日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●法隆寺経蔵は奈良時代(710年~793年)に建立されました。法隆寺経蔵はかつて経典を納めていたが、現在は日本に天文学・地理学などを伝えたという百済(くだら)の僧・観勒僧正(かんろくそうじょう)像(平安時代)を安置しています。また法隆寺を再興できるほどの宝物が収められていると伝わる三伏蔵もあります。
観勒僧正は7世紀初頭の百済出身の僧侶です。飛鳥時代初期の602年(推古天皇10年)10月に百済から日本に渡来し、暦本・天文地理書・遁甲(とんこう)方術書を献上しました。朝廷では書生を選び、暦法を陽胡玉陳(やこのたまふる)、天文遁甲を大友高聡(おおとものこうそう)、方術を山背日立(やましろのひたて)を学ばせました。604年(推古天皇12年)に暦本を聖徳太子(しょうとくたいし)が採用し、飛鳥時代後期の第41代・持統天皇の時代に正式な暦法に採用されました。624年(推古天皇32年)に日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)」によると日本初の僧正(そうじょう)に任命されましたと言われています。624年(推古天皇32年)に一人の僧侶が斧で祖父を殴る事件が起こり、第33代・推古天皇が当該の僧侶だけでなく、諸寺の僧尼を罰しようとしたところ観勒僧正から諸寺の僧尼を罰しないように上表し、第33代・推古天皇が諸寺の僧尼を許し、僧正・僧都(そうず)の制を定めたことから観勒が僧正に任命されました。観勒僧正は「三国仏法伝通縁起」によると三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)に通じ、三論宗の法匠とも言われました。なお観勒僧正は飛鳥寺(あすかでら・法興寺(ほうこうじ))に隣接する飛鳥池遺跡から「観勒」と書かれた木簡が出土し、飛鳥寺に止住(しじゅう)していたとも言われています。
一般的に経蔵は寺院で「一切経」などの経典を納める蔵です。経蔵は経堂・経楼とも言われています。
●法隆寺経蔵は桁行三間・梁間二間で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。法隆寺経蔵は楼造です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
法隆寺見どころ(西院伽藍)法隆寺見どころ(東院伽藍等)

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