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法隆寺西円堂・法隆寺見どころ(修学旅行・観光)
●法隆寺西円堂は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財、1955年(昭和30年)2月2日に国宝に指定されました。
●法隆寺西円堂は鎌倉時代の1250年(建長2年)に再建されました。法隆寺西円堂はかつて奈良時代の718年(養老2年)に光明皇后(第45代・聖武天皇の皇后)の母・橘夫人(県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)の発願により、行基(ぎょうき)が建立したとも言われています。
県犬養三千代は飛鳥時代の665年(天智天皇4年)に父・県犬養東人(あがたいぬかいのあずまびと)の娘として生まれたとも言われています。県犬養氏は全国に設置した直轄地である屯倉(みやけ)を守護する伴造(とものみやつこ)氏族です。県犬養大侶(あがたのいぬかいのおおとも)は大友皇子(第39代・弘文天皇)と大海人皇子(第40代・天武天皇)が皇位を争った壬申の乱(じんしんのらん)の際、大海人皇子に近侍し、684年(天武天皇13年)に称号・宿禰(すくね)姓を賜りました。県犬養三千代は命婦(みょうぶ)として宮中に仕えたとも言われています。最初に第30代・敏達天皇の後裔である美努王(みぬおう)の妻になり、橘諸兄(たちばなのもろえ・葛城王)、橘佐為(たちばなのさい・佐為王)、牟漏女王(むろのおおきみ)を生みました。その後美努王と離別し、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の次男・藤原不比等(ふじわらのふひと)の後妻になり、第40代・聖武天皇の皇后となる安宿媛(あすかべひめ)、藤原多比能(ふじわらのたびの)を生みました。県犬養三千代は第40代・天武天皇、第41代・持統天皇、第42代・文武天皇、第43代・元明天皇、第44代・元正天皇に仕え、42代・文武天皇、第45代・聖武天皇の養育にあたり、708年(慶雲4年)に橘姓を賜わりました。県犬養三千代は夫・藤原不比等を助け、藤原氏繁栄の基礎を築きました。なお県犬養三千代は733年(天平5年)1月11日に亡くなり、760年(天平宝字4年)に正一位と大夫人の称号を賜りました。
行基は飛鳥時代後期の668年(天智天皇7年)に父・高志才智(こしのさいち)と母・蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)の長子として河内国大鳥郡で生まれました。682年(天武11年)に15歳で大官大寺(だいかんだいじ・大安寺(だいあんじ))で出家し、691年(持統天皇5年)に24歳で高宮寺の徳光禅師を戒師として受戒しました。飛鳥寺(あすかでら)・薬師寺(やくしじ)で法相宗(ほっそうしゅう)初伝の道昭(どうしょう)や法相宗の祖・義淵(ぎえん)らに法相宗を学びました。704年(大宝4年)に生家を家原寺(えばらじ)に改め、705年(慶雲2年)に母親とともに大和の佐紀堂に移り、707年(慶雲4年)に母親とともに生駒山の草野仙房に母親に移り、母親が亡くなると3年間喪に服しました。740年(天平12年)に第45代・聖武天皇から依頼されて大仏造立に協力し、743年(天平15年)に大仏造立の勧進に起用されました。しかし大仏造立中の749年(天平21年)に菅原寺(すがわらでら・喜光寺(きこうじ))で81歳で亡くなりました。行基は民衆に仏法の教えを説き、寺院や道場を創建するだけでなく、困窮者の為に布施屋(ふせや)の設立などの社会事業も行いました。行基集団は道場・寺院を49院、溜池15窪、溝・堀9筋、架橋6所を整備したとも言われています。なお行基は738年(天平10年)に朝廷から行基大徳の称号が授与され、745年(天平17年)に日本初の大僧正位を授与されました。
法隆寺見どころ(西院伽藍)・法隆寺見どころ(東院伽藍等)