法隆寺三経院及西室・法隆寺見どころ(修学旅行)

●法隆寺三経院及西室は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)11月22日に国宝に指定されました。
●法隆寺三経院は鎌倉時代の1231年(寛喜3年)に再建され、西室は鎌倉時代の1268年(文永5年)に建立されたとも言われています。三経院は法隆寺開基・聖徳太子が「勝鬘経(しょうまんぎょう)」・「維摩経(ゆいまきょう)」・「法華経(ほけきょう)」を注釈し、注釈書「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と言われる「勝鬘経義疏(伝611年(推古天皇19年))」・「維摩経義疏(伝613年(推古天皇21年))」・「法華義疏(伝615年(推古天皇23年))」を記したことに由来しています。西室は元々僧侶が生活する僧坊だったと言われています。
「勝鬘経」は大乗仏教経典です。「勝鬘経」はお釈迦様の前で、在家仏教徒で、阿踰闍(アヨーディヤー)国王の王妃・勝鬘夫人 (しょうまんぶにん) が大乗仏教の教え(一乗真実の理と如来蔵の法身)を説き、お釈迦様が正しいと認める内容が書かれています。「勝鬘経」は古くから在家仏教徒が仏道を説く経典として使われています。
「維摩経」は大乗仏教経典です。「維摩経」はインド・ヴァイシャーリーの長者・維摩(ヴィマラキールティ)が病気になり、お釈迦様が弟子達を見舞いにやり、維摩と文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が問答を行い、最後に維摩が究極の境地を沈黙によって示した内容が書かれています。「維摩経」は囚われを捨てる空の思想とその実践を説いています。
「法華経」は大乗仏教経典です。「法華経」は詩や譬喩(ひゆ・比喩)・象徴を主とした文学的な表現で、仏と成ることのできる唯一の教えである一乗(いちじょう)の立場を明らかにし、永遠の仏を説きます。また「法華経」は出家と在家や男性と女性といった区別なく、誰もが平等に成仏できると説いています。
聖徳太子は古墳時代の574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人(あなほべのはしひとのひめみこ)の第2皇子として生まれました。聖徳太子は父母がいずれも第29代・欽明天皇を父とする異母兄妹で、兄弟婚によって生まれました。聖徳太子は幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になり、第30代・敏達天皇から第33代・推古天皇までの4代に仕えて権勢を振るった蘇我馬子(そがのうまこ)ととともに天皇を補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階(かんいじゅうにかい)・604年(推古天皇12年)に十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として派遣したりしました。また聖徳太子は仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)と言われる法隆寺(ほうりゅうじ)・四天王寺(してんのうじ)などの寺院を創建したり、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は飛鳥時代の622年(推古天皇30年)2月22日に斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなりました。
法隆寺見どころ(西院伽藍)法隆寺見どころ(東院伽藍等)

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