法隆寺聖霊院・法隆寺見どころ(修学旅行)

●法隆寺聖霊院は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)11月22日に国宝に指定されました。
●法隆寺聖霊院は元々奈良時代に建立された東室(ひがしむろ)の一部だったが、鎌倉時代後期の1284年(弘安7年)に東室の南端部分が法隆寺開基・聖徳太子を祀る聖霊院に改築されました。なお法隆寺聖霊院は桁行六間・梁間五間で、切妻造の本瓦葺です。
聖徳太子は古墳時代の574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人(あなほべのはしひとのひめみこ)の第2皇子として生まれました。聖徳太子は父母がいずれも第29代・欽明天皇を父とする異母兄妹で、兄弟婚によって生まれました。聖徳太子は幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になり、第30代・敏達天皇から第33代・推古天皇までの4代に仕えて権勢を振るった蘇我馬子(そがのうまこ)ととともに天皇を補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階(かんいじゅうにかい)・604年(推古天皇12年)に十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として派遣したりしました。また聖徳太子は仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)と言われる法隆寺(ほうりゅうじ)・四天王寺(してんのうじ)などの寺院を創建したり、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は飛鳥時代の622年(推古天皇30年)2月22日に斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなりました。
東室は西室とともに西院伽藍の東西にある南北に長い建物です。東室・西室は僧房で、法隆寺に住む僧が生活していました。
●法隆寺聖霊院には中央の厨子に本尊・聖徳太子像(国宝)、左の厨子に聖徳太子の長子・山背大兄王像(国宝)や兄弟皇子・殖栗王像(国宝)、右の厨子に聖徳太子の兄弟皇子・卒末呂王像(国宝)や高句麗僧・恵慈法師像(国宝)などが安置されています。
山背大兄王(やましろのおおえのおう)は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)の子として生まれました。628年(推古天皇36年)に第33代・推古天皇が崩御すると皇位継承問題が起り、蘇我馬子の子・蘇我蝦夷(そがのえみし)が推す田村皇子 (第34代・舒明天皇) と争って敗れました。641年(舒明天皇13年)に第34代・舒明天皇が崩御するとその皇后・宝姫王(第35代・皇極天皇、第37代・斉明天皇)が即位したが、その後山背大兄王に衆望が集まりました。山背大兄王は蘇我氏が蘇我馬子の娘・法提郎女 (ほていのいらつめ) と第34代・舒明天皇の子・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を天皇に即位させ、外戚として権力を保持しようとした為、643年(皇極天皇2年)に蘇我馬子の孫で、蘇我蝦夷(そがのえみし)の子・蘇我入鹿(そがのいるか)に斑鳩宮(いかるがのみや)で襲撃され、一時生駒山に逃れたが、法隆寺で一族とともに自害しました。
法隆寺見どころ(西院伽藍)法隆寺見どころ(東院伽藍等)

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