往馬大社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
往馬大社の歴史を時代別年表で紹介。
往馬大社の歴史を簡単にまとめています。往馬大社は古来、生駒山をご神体として祀ったのが起源と言われています。往馬大社は「総国風土記」に記され、458年(雄略天皇3年)には既に祀られていたとも言われています。なお往馬大社歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(蓮台野)】
★往馬大社がご神体とする標高約642メートルの生駒山(いこまやま)は古来から神や仙人などが住む山として、信仰されていました。生駒山には巨岩や奇石、そして幾つかの窟から成る般若窟(はんにゃくつ)などがあります。般若窟は修験道(しゅげんどう)の祖で、宝山寺(ほうざんじ・寳山寺)の開山とも言われる役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が「梵文般若経(ぼんぶんはんにゃきょう)」を書写して納め、真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が若い頃に修行したとも言われています。
【往馬大社創建(起源・由来)】
★往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ))は古来、生駒山(神奈備(かんなび)をご神体として祀ったのが起源と言われているそうです。往馬大社は「総国風土記」の雄略天皇3年(458年)条に「伊古麻都比古神社」と記され、古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)の458年(雄略天皇3年)には既に祀られていたとも言われています。ちなみに往馬大社は奈良県内で大神神社(おおみわじんじゃ)や石上神宮(いそのかみじんぐう)と同様に神奈備をご神体として祀る日本有数の古社で、生駒谷十七郷の氏神として祀られています。なお往馬大社は古麻都比古神社・胆駒社(いこましゃ)・生馬大明神・生馬八幡宮・行馬社・生馬神社・生駒大宮などとも言われています。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】
★奈良時代前期の正倉院(しょうそういん)文書「大倭国正税帳・730年(天平2年)」に往馬大社の「往馬神戸」が記されています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
★平安時代前期の「新抄格勅符抄・806年(延暦25年)」に往馬大社が「伊古麻神三戸大和」と記されています。
★859年(貞観元年)に「三代実録」によると往馬大社が従五位上に叙されました。
★平安時代中期に「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)・927年(延長5年)編纂」に「往馬坐伊古麻都比古神社二座 并大月次新嘗」と記され、大社に列せられ、月次・新嘗の際に朝廷から幣帛(へいはく)を賜りました。また二座の内の一座は祈雨(あまごい)の幣も賜っていました。なお往馬大社は当時、日本全国に祀られていた2,861社の官社の中で、最高位である198社の大社に列せられました。
★1076年(承保3年)に社殿が建立されたとも言われています。
★平安時代に往馬大社に十一ヵ寺の神宮寺(じんぐうじ)があったと言われています。
★平安時代に「北山抄」・「元要記」・「亀相記」によると天皇即位直後の最初に行われる新嘗祭(にいなめさい)である大嘗祭(だいじょうさい)に関わる火きり木が往馬大社から納められていたことが記されています。往馬大社の祭神である伊古麻都比古神(いこまつひこのかみ)・伊古麻都比賣神(いこまつひめのかみ)は火燧木神(ひきりきのかみ)とも言われ、古くから「火の神」として崇敬され、大嘗祭の為に悠紀(ゆき)・主基(すき)二国を決める際、亀の甲羅(こうら)を焼いて占うが、その時に使われる火燧木(ひきりき)は往馬大社が献上して使われる習わしがありました。火燧木は波波迦(ははか)とも言われ、現在の上溝桜(うわみずざくら)にあたります。なお昭和・平成の大嘗祭の際、「斉田點定の儀(さいでんてんていのぎ)」でご神木の上溝桜が使用されました。また1940年(昭和15年)に橿原神宮(かしはらじんぐう)で行われた紀元2,600年祭でも火燧木が使用されました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★鎌倉時代に武家による八幡信仰が盛んになると八幡神(はちまんのかみ)も祀りました。往馬大社はいずれも生駒山の神である伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神の二座に氣長足比賣命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后(じんぐうこうごう))・足仲津比古命(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう))・譽田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇(おうじんてんのう))・葛城高額姫命(かつらぎたかぬかひめのみこと・神功皇后の母)・息長宿禰王命(おきながすくねおうのみこと・神功皇后の父)の五座が加わり、七座を祀るようになりました。鎌倉時代に往馬大社は生駒八幡宮とも称されました。
★鎌倉時代に「生駒曼荼羅(いこままんだら)(重要文化財)」が制作されました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★室町時代に「生駒曼荼羅(県指定文化財)」が制作されました。鎌倉時代・室町時代の「生駒曼荼羅」に神功皇后の本地仏(ほんじぶつ)である十一面観音(じゅういちめんかんのん)像を安置する観音堂が描かれています。十一面観音は鎌倉時代末期頃から室町時代初期頃に造仏されたと言われています。社伝では「雲慶」が造仏したとも伝えられています。「生駒曼荼羅」には七柱の神々と立派な社殿が描かれ、当時の隆盛が描かれています。なお現在の観音堂付近にはかつて経室(きょうしつ)が建立され、「大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻」が納められ、十一ヵ寺の神宮寺が3年ずつ輪番で経室を管理していました。
★室町時代に火祭り(ひまつり)が行われるようになったとも言われています。火祭りでは古来から氏子地区が上座(北)・下座(南)に分かれ、翌年の豊作を賭けて競ったそうです。ご神火が点火された火松明を火出しから受け取ると上座(北)と下座(南)の火取りが7段の石段をどちらが早く駆け下りるかを競います。なお火祭りは龍田大社(たつたたいしゃ)の風神祭・広瀬大社(ひろせたいしゃ)の大忌祭(水神祭)とともに古来から朝廷に崇敬されました。火祭りは奈良県教育委員会によって無形民俗文化財に指定されています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★1665年(寛文5年)に火災に見舞われたと言われています。
★江戸時代に往馬大社は男女一対の神である伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神が祭神として姿を隠し、牛頭天王(ごずてんのう)と八王子(はちおうじ)が祭神とされました。
★江戸時代末期まで現在、英霊殿が建立されている場所に八角の宝壇が設けられ、奈良時代の第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう、第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう))の黄金の位牌が埋められていた場所と伝えられています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、神宮寺が廃寺になりました。
★明治維新後に男女一対の神である伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神が祭神として復活しました。
★1873年(明治6年)に郷社に列せられました。
★1874年(明治7年)に火災に見舞われたと言われています。
★1924年(大正13年)に県社に列せられました。
【往馬大社 備考】
*参考・・・往馬大社(アクセス・見どころ・・・)ホームページ