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石上神宮拝殿・石上神宮見どころ(修学旅行・観光)
石上神宮拝殿
●石上神宮拝殿は1906年(明治39年)4月14日に国の重要文化財、1954年(昭和29年)3月20日に国宝に指定されました。
●石上神宮拝殿は鎌倉時代前期(1185年~1274年)に建立されました。拝殿には第72代・白河天皇(しらかわてんのう)が新嘗祭(にいなめさい)を行う神嘉殿(しんかでん)を拝殿として寄進されたという伝承が残されています。
第72代・白河天皇は平安時代後期の1053年(天喜元年)7月7日に第70代・後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)の東宮(皇太子)・尊仁親王(たかひとしんのう・後三条天皇(ごさんじょうてんのう))と藤原茂子(ふじわらのもし)の第1皇子として生まれました。幼少時に母・藤原茂子が亡くなりました。1065年(治暦元年)に13歳で元服し、1068年(治暦4年)に父・尊仁親王が第71代・後三条天皇に即位すると親王宣下を受けて貞仁親王(さだひとしんのう)になり、翌1069年(延久元年)に立太子され、1071年(延久同3年)に関白・藤原師実(ふじわらのもろざね)の養女・藤原賢子(ふじわらのけんし)が入内しました。1072年(延久4年)に父・後三条天皇から譲位されて20歳で第72代・白河天皇に即位しました。ただ異母弟で、父・後三条天皇の第2皇子・実仁親王(さねひとしんのう)が立太子され、実仁親王とその同母弟で、第3皇子・輔仁親王(すけひとしんのう)に皇位を継がせる意志を持っていたことから白河天皇が反発したが、1085年(応徳2年)に実仁親王に亡くなり、1086年(応徳3年)に輔仁親王ではなく、実子で、第2皇子・善仁親王(たるひとしんのう)を立太子し、即日譲位して8歳の善仁親王が第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう)に即位しました。その後院政を開始し、度々荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発し、叙位・任官に独裁的な発言力を持ちました。また院(上皇)の武力として北面の武士(ほくめんのぶし)を創設したり、仏教にも傾倒し、1096年(永長元年)に出家して法皇になり、「国王の氏寺」と謳われた法勝寺(ほっしょうじ)などを創建しました。 1107年(嘉承2年)に第73代・堀河天皇が崩御すると孫である第74代・鳥羽天皇(とばてんのう)を即位され、更に鳥羽天皇に譲位させて曾孫である第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)を即位させました。白河天皇は子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、曾孫の崇徳天皇の3代・43年間に渡って院政を行ない、後世に「治天の君」とも言われました。第72代・白河天皇は1129年(大治4年)7月24日に亡くなりました。
●石上神宮拝殿は桁行七間・梁間四間で、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。本堂は向拝(こうはい)一間です。拝殿は外観が仏堂風で、貫(ぬき)を多用するなど大仏様(だいぶつよう)の建築様式が見られます。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
石上神宮