石上神宮楼門・石上神宮見どころ(修学旅行・観光)

石上神宮楼門

●石上神宮楼門は1906年(明治39年)4月14日に国の重要文化財に指定されました。
●石上神宮楼門は鎌倉時代後期の1318年(文保2年)に建立されました。楼門は正面に山縣有朋(やまがたありとも)筆の額「萬古猶新(ばんこゆうしん)」が掲げられています。
一般的に楼門は寺社の入口にある二階建て(重層)の門です。楼門は下層に屋根のないものを言い、下層に屋根があるものを二重門と言います。
山縣有朋は江戸時代後期の1838年(天保9年)6月14日に長州藩の蔵元仲間組(足軽)・山縣三郎有稔(やまがたさぶろうありとし)の長男として阿武郡川島村(山口県萩市川島)で生まれました。幼名は辰之助(たつのすけ)、その後小輔(こすけ・小助)・狂介(きょうすけ・狂助・狂輔)と改称し、明治維新後に有朋と称しました。早くから尊王攘夷(そんのうじょうい)思想の影響を受け、1858年(安政5年)に時勢を学ぶ為に吉田松陰(よしだしょういん)に推薦されて伊藤博文(いとうひろぶみ)らとともに京都に派遣され、吉田松陰が主宰した松下村塾(しょうかそんじゅく)で学びました。長州藩倒幕派に加わり、高杉晋作(たかすぎしんさく)らが発案した奇兵隊(きへいたい)軍監として活躍し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で北陸道鎮撫総督(ほくりくどうちんぶそうとく)兼会津征討総督(あいづせいとうそうとく)の参謀として越後・奥羽などを転戦しました。1869年(明治2年)に渡欧して軍制の調査・研究を行い、帰国後に兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)になって兵制改革を担当し、1872年(明治5年)に陸軍大輔(たいふ)・陸軍中将(ちゅうじょう)になって徴兵令(ちょうへいれい)の制定に努め、1873年(明治6年)に陸軍卿(りくぐんきょう)になりました。1877年(明治10年)に西郷隆盛(さいごうたかもり)を盟主として西南戦争(せいなんせんそう)に出征しました。1882年(明治15年)に内務卿(ないむきょう)として自由民権運動を弾圧し、1887年(明治20年)に内相として保安条例(ほあんじょうれい)を公布し、また市制・町村制・府県制・郡制を制定しました。1899年(明治32年)に第1次山県有朋内閣を組閣し、その後法相(ほうしょう)・枢密院(すうみついん)議長などを歴任し、1894年(明治27年)からの日清戦争(にっしんせんそう)で第1軍を率いて出征しました。1898年(明治31年)に元帥府(げんすいふ)が創設されると元帥の称号を与えられ、陸軍省で絶大な発言力を保持しました。1898年(明治31年)に第2次山県有朋内閣を組閣し、退陣後に元老(げんろう)として首相の選任や重要政策の決定などに参画しました。山縣有朋は元老の中でも最も大きな発言力を有していたと言われています。また日英同盟締結を推進し、1904年(明治37年)からの日露戦争(にちろせんそう)で参謀総長として作戦指導に当たりました。1909年(明治42年)に伊藤博文が暗殺されると軍や政界で頂点を極めたが、1920年(大正9年)の宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)で失策を冒し、小田原に閉じこもりました。なお山縣有朋は1922年(大正11年)2月1日に亡くなりました。
●石上神宮楼門は一間一戸(いっけんいっこ)楼門で、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
石上神宮

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