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慈光院書院・慈光院見どころ(修学旅行・観光)
慈光院書院
●慈光院書院は1920年(大正9年)4月15日に国の重要文化財に指定されました。
●慈光院書院は江戸時代前期の寛文年間(1661年~1673年)に建立されました。書院は茅葺きの農家風の外観で、上の間・中の間・下の間などから構成され、全体的に天井や鴨居(かもい)の高さを低くし、座敷に座ると安らぎや落ち着きを感じるように考えられています。上の間は十三畳で、書院広間の席として造られ、床・付書院が備えられています。中の間は八畳・六畳から構成されています。下の間は四畳・水屋から構成されています。書院は北側に三畳逆勝手(ぎゃくがって)で、千道安(せんのどうあん)好みと言われている閑茶室(かんちゃしつ)があります。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
千道安は戦国時代(室町時代後期)の1546年(天文15年)に茶人・千利休(せんのりきゅう)と宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ)の長男として生まれました。母・宝心妙樹が亡くなって、父・千利休が後妻・宗恩(そうおん)と再婚すると仲が悪くなって家を出ました。その後父・千利休と和解するが、後妻・宗恩の連れ子で、千利休の娘・亀(かめ)の女婿で養子になった千少庵(せんのしょうあん)とは同い年であったこともあり、終生茶会で同席することはありませんでした。関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の茶頭(さどう)八人衆に数えられたが、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の怒りを買って父・千利休が切腹すると飛騨高山藩主・金森長近(かなもりながちか)に預けられて蟄居・謹慎を命じられたとも言われています。1594年(文禄3年)に赦されて堺に戻り、堺千家の家督を継いだと言われています。1601年(慶長6年)に豊前国小倉藩初代藩主・細川三斎(ほそかわさんさい)に招かれて茶頭になり、1607年(慶長12年)3月14日に豊前で亡くなったと言われています。
●慈光院書院は桁行約13.9メートル・梁間約9.9メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の茅葺(かやぶき)です。西面突出部は桁行約4.0メートル・梁間約4.0メートルで、入母屋造の茅葺です。庇などは桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
茅葺はイネ科のススキ・ヨシ(アシ)やカヤツリグサ科のスゲなどで屋根を葺く方法です。茅葺は世界各地で最も原初的な屋根とされ、日本では縄文時代に茅を使った屋根だけの住居(竪穴式住居)が造られていたとも言われています。なお日本最古の茅葺屋根民家は室町時代に建てられた兵庫県神戸市・箱木家住宅(国の重要文化財)です。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
慈光院