海龍王寺五重小塔・海龍王寺見どころ(修学旅行・観光)

海龍王寺五重小塔

●海龍王寺五重小塔は1901年(明治34年)8月2日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●海龍王寺五重小塔は奈良時代の天平時代(729年~749年)に造られました。五重小塔は海龍王寺創建当時から西金堂(重要文化財)内に安置され、西金堂とともに光明皇后宮内に残る天平時代の遺構とも言われ、内廷仏教と内廷寺院の中心伽藍を現在に伝えています。ちなみに海龍王寺内には西金堂と対照の位置に東金堂とその中に五重小塔があったが、明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で基壇跡だけが残されました。なお五重小塔は三間五重塔婆(さんげんごじゅうとうば)で、本瓦形板葺(ほんがわらがたいたぶき)です。
五重小塔は高さ約4.01メートルです。海龍王寺が光明皇后宮内に創建され、限られた敷地の中に大寺院の伽藍の形式を持ち込まれたことから高さ数十メートルの五重塔が建立できず、五重小塔が造られたと言われています。五重小塔は奈良時代前期の730年(天平2年)に建立された薬師寺(やくしじ)東塔(国宝)と似た様式で、奈良時代の建築様式を知る上で重要とされています。ちなみに薬師寺東塔は一見六重塔のように見えるが、三重塔の各層には裳階(もこし)と言われる小さな屋根が取り付けられ、六重塔のように見えます。ちなみに元興寺(がんごうじ)の高さ約5.5メートルの五重小塔(国宝)は内部構造を省略せず、屋外に建立されている五重塔と同様に1つ1つの部材を組み上げて造られているが、海龍王寺の五重小塔は箱状の構造物を積み上げ、組物などの細かい部材が外側から貼り付けられています。海龍王寺の五重小塔は工芸的な性格も重視しているとも言われています。五重小塔は下部の基壇(きだん)に鎌倉時代後期の1297年(永仁2年)の銘があり、その頃に修理が行われたとも言われています。また上部に突き出した相輪(そうりん)は1906年(明治39年)に補作されました。なお五重小塔には塔内に木箱入り「法華経(ほけきょう)」2巻が安置されていました。
光明皇后は飛鳥時代後期の701年(大宝元年)に公卿(くぎょう)・藤原不比等(ふじわらのふひと)と県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)の三女・安宿媛(あすかべひめ)として生まれました。その後皇太子であった第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)と結婚し、非皇族初の皇后(聖武天皇の妻)になりました。奈良時代前期の718年(養老2年)に第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう)と第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)となる阿倍内親王(あべないしんのう)を生み、724年(神亀元年)の聖武天皇の即位とともに後宮(こうきゅう)の位階・夫人号を賜りました。727年(神亀4年)11月16日に皇太子・基王(基皇子(もといのみこ))を産んだが、728年(神亀5年)10月20日に基王が亡くなりました。左大臣・長屋王(ながやおう)の変後の729年(天平元年)8月10日に皇后の詔が発せられました。749年(天平勝宝元年)に夫で、聖武天皇が娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、756年(天平勝宝8年)5月2日に聖武天皇が崩御しました。光明皇后は聖武天皇とともに仏教に深く帰依し、聖武天皇による国分寺・国分尼寺建立や大仏造立を助けるだけでなく、社会福祉にも尽力し、病院に当たる施薬院(せやくいん)や貧窮者・孤児の為の悲田院(ひでいん)などを設置しました。光明皇后にはハンセン病の病人から膿を吸ったところその病人が金剛界(こんごうかい)五仏の一尊・阿しゅく如来(あしゅくにょらい)であったという伝承が残されています。なお光明皇后は760年(天平宝字4年)7月27日に亡くなり、佐保山東陵(さほやまのひがしのみささぎ)に葬られました。
海龍王寺(アクセス・見どころ・・・)

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