橿原神宮の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
橿原神宮の歴史を時代別年表にまとめ
橿原神宮の歴史を簡単にまとめています。橿原神宮は1889年(明治22年)に明治政府が創建を認可し、1890年(明治23年)1月に京都御所から賢所・神嘉殿が移築されたのが起源です。その後同年3月に社号を橿原神宮としました。(時代別年表・重要人物下記参照)
橿原神宮見どころ
【前史(畝傍橿原宮)】
- 橿原神宮が建立されている場所は初代・神武天皇(じんむてんのう)の宮・畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)があったとされる場所と言われています。初代・神武天皇は日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」によると天照大神(あまてらすおおみかみ)の天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から4代目で、豊かで平和な国作りを目指し、九州・高千穂(たかちほ)の宮から東に向かい、標高約198.8メートルの畝傍山(うねびやま)南東の麓に畝傍橿原宮を造営し、辛酉(しんゆう)年(紀元前660年)正月朔日(さくじつ)に初代天皇に即位したと言われています。日本最古の歴史書「古事記(こじき)・712年(和銅5年)編纂」には「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記されています。なお畝傍山は「日本書紀」・「古事記」などに「畝火山」・「雲根火山」・「宇禰縻夜摩」・「慈明寺山」・「御峯山」・「瑞山」などと記され、標高約152.4メートルの天香久山(あまのかぐやま・あめのかぐやま)・標高約139.6メートルの耳成山(みみなしやま)とともに大和三山と言われています。畝傍山東麓には南側に橿原神宮、北側に神武天皇御陵があります。
- 1863年(文久3年)に初代・神武天皇の御陵が橿原神宮に隣接する現在の場所に定められ、その後修補されたと言われています。明治10年代に畝傍橿原宮址を調査し、これを顕彰しようという動きが高まり、畝傍橿原宮址碑の建立や橿原神社の建立の出願が相次ぎました。
【橿原神宮創建(起源・由来)】
- 1889年(明治22年)に明治政府が畝傍橿原宮址に橿原神宮創建を認可し、1890年(明治23年)1月に社殿として京都御所から賢所(かしこどころ)・神嘉殿(しんかでん)が移築されました。同年3月に社号を橿原神宮とし、官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列せられました。なお橿原神宮は初代天皇・神武天皇と皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀っています。ちなみに媛蹈鞴五十鈴媛命は大物主命(おおものぬしのみこと)の娘とされています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 1911年(明治44年)から第1回事業として、境内が創建当初の面積2万159坪から約1.8倍の面積3万6,600坪に拡張整備され、1926年(大正15年)に完了しました。
- 1940年(昭和15年)に第124代・昭和天皇が行幸しました。1940年(昭和15年)は橿原神宮鎮座50年、初代・神武天皇即位2,600年にあたることから奉祝記念事業として、社殿の修築・境内と神武天皇陵の拡張整備、そして駅舎や線路の移設などが計画されました。境内の拡張整備と外苑の造営には明治神宮の外苑建設に倣って、勤労奉仕で行われることになり、7,200団体、延べ121万4,000余人が参加しました。なお1940年(昭和15年)の秋には全国各地で紀元2,600年奉祝式典が挙行され、橿原神宮には1年間に約1,000万人の参拝者がありました。
- 1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されました。
【初代・神武天皇:橿原神宮祭神】
初代・神武天皇(神日本磐余彦天皇・かむやまといわれびこのすめらみこと)は天照大神の天孫・瓊瓊杵尊から4代目とされています。父は鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、母は海神の女・玉依姫(たまよりひめ)とされています。45歳で豊かで平和な国作りを目指し、九州・高千穂の宮から東に向かい、瀬戸内海を東進し、難波に上陸して大和に向かおうとしたが、豪族・長髄彦(ながすねひこ)に妨げられ、紀伊半島を迂回して熊野から大和に入り、日向出発から6年目で大和一帯を平定し、紀元前660年(神武天皇元年)1月1日(新暦の2月11日)に畝傍橿原宮で初代天皇に即位しました。初代・神武天皇は紀元前585年(神武天皇76年)3月11日に127歳で崩御したと言われています。
【橿原神宮 備考】
*参考・・・橿原神宮(歴史・見どころ・・・)ホームページ