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春日大社船戸神社・春日大社見どころ(修学旅行・観光)
春日大社船戸神社
●春日大社船戸神社は貴賓殿と国宝殿の間に建立されている春日大社の末社です。船戸神社はかつて船戸屋(ふなどや)とも言われた興福寺の塔頭(たっちゅう)・大乗院(だいじょういん)の祈祷屋の鎮守社で、塞の神(さいのかみ)を祀っていたとも言われています。船戸神社は明治時代の神仏分離(廃仏毀釈)によって春日大社境内に移されました。船戸神社は衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)を祀り、交通安全・旅行の安全などにご利益のあるとも言われています。
衝立船戸神は日本神話で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から逃げてきた際、投げた杖(つえ)から生まれたとされています。衝立船戸神は古く「岐(ちまた)、投杖神(なげつえのかみ)是也」とあって、旅行などの移動中に寄りつく悪霊を防ぐ神、塞ぐ神とされ、やがて旅人など道行く人々の災難を防ぎ、交通の安全を守る塞神(さえのかみ・賽神(さいしん))、次いで道祖神(どうそじん)になりました。
大乗院は平安時代後期の1087年(寛治元年)に左近衛少将(さこんえのしょうしょう)・藤原政兼(ふじわらのまさかね)の子で、興福寺権別当・隆禅(りゅうぜん)が創建しました。その後太政大臣・藤原師実(ふじわらのもろざね)の子で、興福寺別当・尋範(じんぱん)が継承し、太政大臣・藤原忠通(ふじわらのただみち)の子で、興福寺別当(第4代院主)・信円(しんえん)の時代頃に門跡寺院になり、その後院主が一乗院とともに興福寺別当を務めました。平安時代末期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討や室町時代中期の1451年(宝徳3年)の土一揆によって焼失したが、いずれも院主で、興福寺別当である経覚(きょうかく)・尋尊(じんそん)が活躍しました。しかし戦国時代以降に次々と所領を失って衰微しました。1869年(明治2年)に神仏分離(廃仏毀釈)により、関白・九条尚忠(くじょうひさただ)の子で、最後の門跡・隆芳(りゅうほう)が還俗すると廃寺になりました。
興福寺は669年(天智天皇8年)に藤原氏の始祖・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の妻・鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・藤原鎌足の病気平癒の祈願の為、藤原鎌足発願の本尊・釈迦三尊像や四天王などを安置する山階寺(やましなでら)を山背国山階陶原に創建したのが起源と言われています。672年(天武天皇元年)の藤原京遷都とともに山階寺も移され、地名から厩坂寺(うまやさかでら)と言われました。710年(和銅3年)の平城京遷都とともに藤原鎌足の次男・藤原不比等(うじわらのふひと)が現在の場所に移し、興福寺と名付けました。
●春日大社船戸神社は春日造(かすがづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
春日造は仏教建築の影響を受け、奈良時代中期に現れたとも言われています。春日造は奈良市の円成寺(えんじょうじ)の春日堂(国宝)・白山堂(国宝)が最古の例になります。ちなみに春日堂・白山堂は鎌倉時代の1228年(安貞2年)に春日大社の本殿を移築したものと言われています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
春日大社見どころ