春日大社春日東西御塔跡 ・春日大社見どころ(修学旅行・観光)

春日大社春日東西御塔跡

●春日大社春日東西御塔跡は一之鳥居(重要文化財)の北側で、奈良国立博物館の敷地内にあります。西塔(五重塔)は平安時代後期の1116年(永久4年)に関白・藤原忠実(ふじわらのただざね)の祈願によって建立され、殿下の御塔(でんかのみとう)と言われていました。東塔(五重塔)は1140年(保延6年)鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)の祈願よって建立され、院の御塔(いんのみとう)と言われていました。その後平安時代末期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討によって焼失し、その後再建されたが、室町時代前期の1411年(応永18年)に落雷によって焼失しました。
藤原忠実は平安時代後期の1078年(承暦2年)に関白・藤原師通(ふじわらのもろみち)と右大臣・藤原俊家(ふじわらのとしいえ)の娘・藤原全子(ふじわらのぜんし)の嫡男として生まれました。1088年(寛治2年)に元服し、1091年(寛治5年)に従三位に叙されました。15歳で中納言(ちゅうなごん)になり、奈良・春日大社(かすがたいしゃ)で春日祭(かすがのまつり・かすがさい)を主催したとも言われています。1099年(康和元年)に父・藤原師通が亡くなると祖父で、太政大臣・藤原師実(ふじわらのもろざね)の養子になり、権大納言(ごんだいなごん)・左大将(さだいしょう)で内覧の宣旨を受けました。また藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)である藤氏長者(とうしのちょうじゃ)にもなりました。1100年(康和2年)に右大臣となり、1105年(長治2年)に第73代・堀河天皇の関白になり、1107年(嘉承2年)に第74代・鳥羽天皇の摂政になりました。しかし三女・藤原泰子(ふじわらのたいし)の入内をめぐって白河法皇(第72代・白河天皇)と対立し、1121年(保安2年)に職を辞し、嫡男・藤原忠通(ふじわらのただみち)が関白になりました。1129年(大治4年)に白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると政界に復帰し、1133年(長承元年)に三女・藤原泰子を鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)の妃として入内させました。1140年(保延6年)に出家して圓理と称しました。その後三男・藤原頼長(ふじわらのよりなが)を寵愛し、嫡男・藤原忠通と対立したことから1156年(保元元年)の保元の乱(ほうげんのらん)の一因になりました。なお藤原忠実は1162年(応保2年)7月31日に亡くなりました。
第74代・鳥羽天皇は1103年(康和5年)2月24日に第73代・堀河天皇と藤原苡子の第1皇子として生まれました。生後間もなく母・藤原苡子が亡くなったことから祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)のもとで養育され、その後生後7か月で立太子され、 1107年(嘉承2年)に父・堀河天皇が崩御すると5歳で第74代・鳥羽天皇に即位しました。幼く、病弱だったことから祖父・白河法皇が院政を執りました。1117年(永久5年)に白河法皇の養女・藤原璋子が入内し、翌年に藤原璋子が中宮になりました。1123年(保安4年)に第1皇子で、第75代・崇徳天皇に譲位したが、その後も祖父・白河法皇が院政を続けたが、1129年(大治4年)に白河法皇が崩御すると院政を敷きました。祖父・白河法皇の側近を排除し、中宮・藤原璋子に代わり、1133年(長承2年)頃から藤原得子を寵愛し、1141年(永治元年)に第75代・崇徳天皇を23歳で譲位させ 、藤原得子との第9皇子・体仁親王を3歳で第76代・近衛天皇に即位させました。1142年(康治元年)に東大寺の戒壇院で受戒して法皇になり、1155年(久寿2年)に第76代・近衛天皇が崩御すると藤原璋子との第4皇子・雅仁親王を第77代・後白河天皇に即位させました。崇徳上皇(第75代・崇徳天皇)の意を押えて第77代・後白河天皇を即させたことから保元の乱の原因になったと言われています。第74代・鳥羽天皇は仏教を篤く信仰し、最勝寺・六勝寺などを創建したり、熊野に詣でたりしました。また催馬楽(さいばら)・音律に精通し、笛の名人としても知られています。なお第74代・鳥羽天皇は1156年(保元元年)7月20日に崩御しました。
春日大社見どころ

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