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春日大社慶賀門・春日大社見どころ(修学旅行・観光)
春日大社慶賀門
●春日大社慶賀門は1901年(明治34年)8月2日に国の重要文化財に指定されました。
●春日大社慶賀門は南北朝時代の1382年(弘和2年・永徳2年)~1385年(元中2年・至徳2年)に建立されたと言われています。慶賀門は内侍門(ないしもん)・清浄門(せいじょうもん)とともに西回廊にあり、西回廊の一番南側にあります。慶賀門は内侍門・清浄門と異なって天井板が格天井(ごうてんじょう)になっています。慶賀門はかつて藤原氏の大臣(だいじん)や上卿(しょうけい)が参入しました。現在の春日祭では勅使が藤原氏の場合、慶賀門から入って奉仕します。
藤原氏は中臣氏(なかとみし)と同じく天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖とし、中臣氏は大和政権の神事を司っていました。中臣鎌足(なかとみのかまたり・藤原鎌足)は蘇我氏(そがし・蘇我宗家)を滅ぼし、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治に変えた大化の改新(たいかのかいしん)の功により、669年(天智8年)に第38代・天智天皇から姓「藤原」を賜りました。中臣鎌足(藤原鎌足)と中大兄皇子(第38代・天智天皇)らは蘇我稲目(そがのいなめ)・蘇我馬子(そがのうまこ)・蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)の4代に渡って政権を掌握した蘇我氏に憤り、蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自害され、その後男女の法の制定・鍾匱の制の開始・仏法興隆の詔の発布などの改革が進めました。その後684年(天武13年)に「朝臣(あそん)」の姓 (かばね)を賜り、698年(文武2年)に中臣鎌足の次男・藤原不比等(ふじわらのふひと)の子孫のみが「藤原」の使用が認められました。藤原不比等の長男・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が藤原南家(なんけ)祖、次男・藤原房前(ふじわらのふささき)が藤原北家(ほっけ)祖、三男・藤原宇合(ふじわらのうまかい)が藤原式家(しきけ)祖、四男・藤原麻呂(ふじわらのまろ)が藤原京家(きょうけ)祖になり、藤原四家が成立しました。北家は平安時代に摂政・関白・太政大臣の地位に就いて藤原氏の主流になり、藤原道長(ふじわらのみちなが)・藤原頼通(ふじわらのよりみち)の頃に全盛を迎えたが、鎌倉時代に五摂家(近衛家(このえけ)・鷹司家(たかつかさけ)・九条家(くじょうけ)・二条家(にじょうけ)・一条家(いちじょうけ))が分立し、その後も支流を含む藤原氏一族全体が朝廷で重要な地位を維持し続けました。
春日祭(申祭(さるまつり))は平安時代前期の849年(嘉祥2年)に始まったとも、850年(嘉祥3年)に始まったとも言われています。春日祭は賀茂社(かもしゃ(上賀茂神社・下鴨神社))の葵祭(あおいまつり)・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の石清水祭(いわしみずさい)とともに三大勅祭に数えられました。なお春日祭は明治維新までは2月・11月の上の申の日に行われていたが、1886年(明治19年)からは3月13日に行われるようになりました。
●春日大社慶賀門は一間一戸門で、切妻造(きりづまづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
春日大社見どころ