春日大社総宮神社・春日大社見どころ(修学旅行)

春日大社総宮神社

●春日大社総宮神社は平安時代初期に興福寺境内に創建されました。興福寺五重塔の南側の安居屋(あんごや)跡に建立されていたとも言われています。明治時代の神仏分離(廃仏毀釈)によって春日大社境内に移されました。総宮神社は伊勢・春日・八幡大神・白山大神・三光宮・二上権現・北向荒神・窪弁財天・睡大神を祀っています。総宮神社には住まいを授け、住人の平安を守るご利益があるとも言われています。また建築・土木関係者にも崇敬され、地鎮・引越しの際に参拝されています。建築・家宅守護にご神徳があるとされています。
神仏分離は奈良時代から強まった神仏習合(しんぶつしゅうごう)の慣習を禁止し、神道と仏教・神と仏・神社と寺院を区別するものです。1868年(慶応4年)3月28日に神仏分離令(神仏判然令)が発せられました。ちなみに神仏分離では1868年(慶応4年)3月13日(新暦4月5日)に発せられた太政官布告から1870年(明治3年)1月3日(新暦2月3日)に出された詔書・大教宣布が強く影響を与えました。なお神仏分離令(神仏判然令)により、全国各地で仏教を排撃し、神道を極度に重んじようとする過激な廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、全国各地で寺院や仏具が破壊されました。
興福寺は669年(天智天皇8年)に藤原氏の始祖・藤原鎌足(うじわらのかまたり)の妻・鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・藤原鎌足の病気平癒の祈願の為、藤原鎌足発願の本尊・釈迦三尊像や四天王などを安置する山階寺(やましなでら)を山背国山階陶原に創建したのが起源と言われています。672年(天武天皇元年)の藤原京遷都とともに山階寺も移され、地名から厩坂寺(うまやさかでら)と言われました。710年(和銅3年)の平城京遷都とともに藤原鎌足の次男・藤原不比等(うじわらのふひと)が現在の場所に移し、興福寺と名付けました。720年(養老4年)に藤原不比等が亡くなると造興福寺仏殿司が設けられ、国家事業として伽藍が整備され、奈良時代に四大寺(興福寺・大安寺・元興寺・薬師寺,)、平安時代に七大寺(興福寺・東大寺・元興寺・大安寺・西大寺・薬師寺・法隆寺)に数えられ、延暦寺(えんりゃくじ)とともに南都北嶺(なんとほくれい)と称されました。最盛期には一乗院(いちじょういん)・大乗院(だいじょういん)など塔頭や付属寺院が百か院以上を数えたそうです。また平安時代に春日大社(かすがたいしゃ)の実権も手に入れ、大和国を領するほどになり、鎌倉時代・室町時代に鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たり、江戸時代には興福寺・春日大社の知行地が2万1千余石と定められました。
●春日大社総宮神社は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
春日大社見どころ

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