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春日大社多賀神社・春日大社見どころ(修学旅行・観光)
春日大社多賀神社
●春日大社多賀神社は廻廊内の北西隅に祀られている春日大社の末社です。多賀神社は平安時代後期の1146年(久安2年)に近江国・多賀大社(たがたいしゃ)から勧請されて祀られました。多賀神社は伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祀り、生命を司る延命長寿の霊験が高いとも言われています。東大寺大勧進職・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が東大寺大仏殿を再建する際、寿命を頂いたという伝承が残されています。なお多賀神社では御神徳を求めて、延命長寿の「幡(ばん)」の奉納が絶えないそうです。
多賀神社の絵馬には「莚」が記されています。俊乗房重源は東大寺大仏殿を再建する際、伊勢神宮に参拝して17日間祈願すると祭神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)から「祈願するなら、天照大御神の父神を祀る近江の多賀大社へ参拝せよ」との啓示を受け、多賀大社に参拝して祈願すると神殿から一片の木の葉が舞い降り、その葉には虫食いで「莚」の字が書かれていたことに由来しています。
俊乗房重源は平安時代後期の1121年(保安2年)に紀季重の子・刑部左衛門尉重定(ぎょうぶさえもんのじょうしげさだ)として京都で生まれました。13歳で真言宗醍醐派総本山・醍醐寺(だいごじ)で密教を学び、その後浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)に浄土教を学び、大峯・熊野・御嶽・葛城などで修行(遊行)しました。1167年(仁安2年)~1176年(安元2年)に3回中国・宋(南宋)に留学したとも言われ、「入唐三度聖人」と称しました。入宋中に浄土教の知識を得たり、阿育王山(あいくおうざん)の舎利殿(しゃりでん)を建立する建築法を体得したりしたと言われています。1180年(治承4年)に南都焼討によって東大寺の伽藍や大仏(盧舎那仏像)が焼失すると1181年(養和元年)に被害状況を視察に来た後白河法皇(第77代・後白河天皇)の使者・藤原行隆に東大寺の再建を進言し、藤原行隆の推挙により、61歳で東大寺大勧進職に就きました。後白河法皇・九条兼実・源頼朝などに寄付を依頼し、1185年(文治元年)に大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)に大仏殿が再建され、10数年の歳月を掛けて東大寺を再興しました。なお俊乗房重源は1206年(健永元年)に86歳で亡くなりました。
大仏殿(金堂)は奈良時代の758年(天平宝字2年)に完成したが、平安時代末期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討によって焼失しました。その後俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が再建し、1190年(建久元年)に上棟式、1195年(建久6年)に落慶供養が行われたが、戦国時代(室町時代後期)の1567年(永禄10年)の松永・三好の合戦によって再び焼失しました。その後公慶上人(こうけいしょうにん)が再建し、江戸時代中期の1709年(宝永6年)に落慶しました。
多賀大社は起源が明確ではありません。多賀大社は日本最古の歴史書「古事記(こじき)・712年(和銅5年)」に「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」と記され、それ以前から祀られていたとも言われています。また多賀大社は社伝によると神代の昔、国生みの大業を終えられた伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)が高天の原から杉坂峠に天降られたとも言われ、神代の昔から祀られていたとも言われています。多賀大社は滋賀県第一の大社で、延命長寿・縁結び・厄除けのご利益があると信仰されてきました。安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が篤く信仰し、1588年(天正16年)に米1万石を奉納して、母・大政所(おおまんどころ・天瑞院春岩)の病気平癒を祈願しました。
春日大社見どころ