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金峯山寺役行者像・金峯山寺見どころ(修学旅行・観光)
金峯山寺役行者像
●金峯山寺役行者像は太平洋戦争後に女性行者の為に本堂(蔵王堂)西方の谷間に行場として一の滝(龍神池)を開いた際、1950年(昭和26年)に行場の入口に建立されました。両脇には前鬼・後鬼の像も建立されています。なお標高約1,719メートルの山上ヶ岳(さんじょうがたけ・大峯山)は山麓に女人結界門があり、女人禁制になっています。
役行者(役小角(えんのおづぬ)・役優婆塞(えんのうばそく))は飛鳥時代の634年(舒明天皇6年)に父・大角(おおづぬ)と母・白専女(しらとうめ)との間に賀茂一族(高賀茂朝臣(たかかもあそん)として大和国葛城上郡(茅原奈良御所市茅原)で生まれたとも言われました。誕生地には本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)の吉祥草寺(きっしょうそうじ)が役行者によって創建されています。650年(白雉元年)に京都・志明院(しみょういん)を創建したとも言われています。その後17歳で奈良・元興寺(がんごうじ・飛鳥寺(あすかでら))で孔雀明王(くじゃくみょうおう)の呪法(じゅほう・孔雀経法)を学びました。その後葛城山(かつらぎさん)・熊野(くまの)・大峰(おおみね)などで山岳修行を続け、吉野・金峯山(きんぷさん)で金剛蔵王大権現(こんごうざおうごんげん)を感得し、日本古来の山岳信仰や山修行と外来の密教(仏教)などを融合させた修験道(しゅげんどう)の基礎を築きました。20代頃に大化の改新(たいかのかいしん)の中心人物で、藤原氏の始祖・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の病気を平癒させたとも言われています。しかし弟子で、典薬頭(てんやくのかみ)・韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師・役行者の能力を妬み、鬼神(きじん)を使役とした妖術(ようじゅつ)を使って、人を惑わしていると朝廷に讒訴(ざんそ)したことから699年(文武3年)5月に伊豆島に流罪になりました。鬼神を使って水を汲ませ、薪を集めさせるなど家事を手伝わせ、命令に従わなければ呪術で縛ったとも言われています。701年(大宝元年)1月に大赦となって故郷・御所市茅原に戻り、同年6月7日に箕面山瀧安寺(りゅうあんじ)の奥の院にあたる大阪箕面・天上ヶ岳(てんじょうがたけ)で68歳で亡くなったと言われています。江戸時代後期の1799年(寛政11年)に第119代・光格天皇(こうかくてんのう)から神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)の諡号(しごう)を賜りました。なお役行者には伝説が残されています。前鬼(夫)と後鬼(妻)という夫婦の鬼を弟子にしていたとも言われています。また葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと諸国の神々を動員したが、葛木山の一言主(ひとことぬし)が夜間しか働かなかったことから折檻したとも言われています。更に流刑になった伊豆大島から毎晩海上を歩いて富士山に登っていったとも言われています。
金峯山寺見どころ