金峯山寺の歴史は役行者が蔵王権現を刻んで吉野山に祀ったのが起源
金峯山寺の時代別年表と重要人物
金峯山寺は白鳳年間(7世紀後半)に修験道の祖である役行者・役小角が修行していた山上ヶ岳で、金剛蔵王大権現を感得し、その姿を山桜の木に刻んで、山上ヶ岳の頂上(大峯山寺)と山下の吉野山に祀ったのが起源です。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【吉野山・金峯山】
- 吉野山から標高約1,719メートルの山上ヶ岳(さんじょうがたけ)一帯は古くから金の御岳(かねのみたけ)・金峯山(きんぷせん)と称され、古代から聖域とされていました。
【金峯山寺の起源・始まり】
- 飛鳥時代の白鳳年間(7世紀後半)に修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が金峯山の頂上である山上ヶ岳で一千日間の参籠修行すると金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん・蔵王権現)を感得し、修験道の本尊としました。また役行者はその姿を山桜の木に刻んで、山上ヶ岳の頂上(大峯山寺)と山下(さんげ)にあたる吉野山に祀ったのが金峯山寺の起源とも言われています。ちなみに吉野山では桜が神木とされ、平安時代頃から桜の木がたくさん植えられるようになったと言われています。役行者は全国の霊山を開山し、その後熊野から大峯山脈の稜線伝いに吉野で33度修行を重ね、最後に山上ヶ岳で一千日間の参籠修行を行ったと言われています。役行者は苦しみの中に生きる衆生を救う為に修験道の本尊を賜りたいと祈念すると先ず釈迦如来(しゃかにょらい)・千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)・弥勒菩薩(みろくぼさつ)の三仏が出現したが、その柔和な姿では荒ぶる衆生を救いがたいと思われ、更に祈念を続けると天地鳴動し、山上の大盤石が割れ裂け、雷鳴ととともに湧き出るが如く忿怒(ふんど)の形相荒々しい金剛蔵王大権現が出現しました。金剛蔵王大権現は釈迦如来・千手千眼観世音菩薩・弥勒菩薩が柔和な姿を捨て、忿怒の形相荒々しい姿で再出現したものでした。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 894年(寛平6年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の孫弟子で、醍醐寺(だいごじ)開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が再興しました。「聖宝僧正伝」によると金峯山寺は荒廃し、参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音(にょいりんかんのん)・多聞天(たもんてん)・金剛蔵王菩薩を安置したと言われています。なお醍醐寺の塔頭(たっちゅう)・三宝院(さんぼういん)は修験道の当山派の総本山になっています。なおこの頃から金峯山寺は皇族・貴族から一般民衆にまで崇敬され、修験道の根本道場として栄えるようになりました。
- 900年(昌泰3年)に宇多法皇(第59代・宇多天皇(うだてんのう))が参詣しました。
- 1007年(寛弘4年)に太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)が参詣しました。藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚を造営し、日本最古の経塚と言われています。なお江戸時代に埋納された経筒(国宝)が発掘され、現在金峯神社が所蔵しています。
- 1088年(寛治2年)に関白・藤原師通(ふじわらのもろみち)が参詣しました。
- 1092年(寛治6年)に白河上皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))が参詣しました。
- 1093年(寛治7年)に蔵王堂が焼失し、その後再建されました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 1225年(嘉禄元年)・1264年(文永元年)に蔵王堂が焼失し、その都度再建されました。
- 1333年(元弘3年)に二天門が焼失したが、蔵王堂は焼失を免れました。1331年(元弘元年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府打倒を図った元弘の乱が起こり、1332年(元弘2年)に後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう・もりながしんのう)が吉野城に立て籠もり、1333年(元弘3年)に鎌倉幕府の軍勢が攻め寄せると二天門で村上義光が自害し、護良親王は退却しました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 1348年(正平3年・貞和4年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の家臣・高師直(こうもろなお)による焼き討ちで全山焼失し、その後蔵王堂が再建されました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 1586年(天正14年)に蔵王堂が焼失し、1592年(天正20年)頃に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の寄進によって再建されたと言われています。なお豊臣秀吉は1594年(文禄3年)に吉野山で花見を行いました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 江戸時代に江戸幕府の命により、金峯山寺は天台宗(てんだいしゅう)の門跡寺院・日光輪王寺(りんのうじ)の支配下とされ、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の影響を強く受けることになりました。1614年(慶長19年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命により、天台宗の僧・天海大僧正(てんかいだいそうじょう)が金峯山寺の学頭になったと言われています。
- 1772年(明和9年)に国学者・文献学者である本居宣長(もとおりのりなが)が金峯山寺に参拝し、蔵王権現を実見しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 明治維新後に修験道が禁止され、一時期廃寺になりました。1886年(明治19年)に天台宗(てんだいしゅう)の寺院として復興され、1948年(昭和23年)に金峯山修験本宗を立宗して総本山になりました。
- 2004年(平成16年)に金峯山寺はユネスコ世界文化遺産(紀伊山地の霊場と参詣道)に登録されました。
【金峯山寺の開基とされる役行者・役小角】
役行者・役小角は634年(舒明天皇6年)に父・大角と母・白専女の子として大和国葛城上郡茅原で生まれたとも言われました。その後元興寺で孔雀明王の呪法を学び、葛城山・熊野・大峰などで山岳修行を続け、吉野・金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、日本古来の山岳信仰・山修行・密教(仏教)などを融合させた修験道の基礎を築きました。しかし弟子・韓国連広足が役行者の能力を妬み、妖術を使って人を惑わしていると朝廷に讒訴し、699年(文武3年)に伊豆島に流罪になりました。701年(大宝元年)1月に大赦されて故郷に戻り、6月7日に大阪箕面・天上ヶ岳で亡くなったとも言われています。
【金峯山寺 備考】
*参考・・・金峯山寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ