金峯山寺威徳天満宮・金峯山寺見どころ(修学旅行・観光)

金峯山寺威徳天満宮堂

●金峯山寺威徳天満宮は社伝によると平安時代中期の959年(天徳3年)9月5日に祀られ、日本最古の天満宮とも言われています。竹林院(ちくりんいん)の前身である椿山寺(ちんざんじ)で出家した日蔵上人が大峯山中の笙の窟(しょうのいわや)で修行していると急に仮死状態になって間魔宮へ行き、天子の衣服を身に着けて彷徨う第60代・醍醐天皇に出会いました。醍醐天皇は生前善政を行ったつもりだが、藤原時平の告げ口で菅原道真を太宰府に左遷し、死後にその罪に苦しみ、生前師と仰いだ日蔵上人に生き返って菅原道真の霊を祀ってほしい、そうすると苦しみから救われると告げました。日蔵上人はこの世に黄泉がえり、修行を終えると吉野山に帰り、社殿を建立して菅原道真を祭神に祀りました。桃山時代から江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に関白・豊臣秀吉の子・豊臣秀頼が改修しました。その後1998年(平成10年)の台風7号で被害を受けたが、2001年(平成13年)に社殿が修復されました。
菅原道真は845年(承和12年)6月25日(旧暦8月1日)に公家・菅原是善と母・伴真成の娘の三男として生まれました。幼少の頃から和歌・漢詩に優れ、862年(貞観4年)に18歳で文章生試験に合格し、867年(貞観9年)に文章得業生になり、正六位下・下野権少掾に叙任されました。877年(元慶元年)に式部少輔・文章博士になりました。880年(元慶4年)に父が亡くなると私塾・菅家廊下を主宰しました。886年(仁和2年)に讃岐守に任命されて讃岐国に下向したが、890年(寛平2年)に第59代・宇多天皇の側近として帰京し、その後公卿に列しました。899年(昌泰2年)に右大臣に任命され、901年(延喜元年)に従二位に叙せられました。しかしその直後に「宇多上皇を欺き惑わした」・「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」という左大臣・藤原時平の讒言(告げ口)により、太宰府に左遷され、4人の子供も流刑に処されました。その後903年(延喜3年)3月25日に太宰府で亡くなりました。
第60代・醍醐天皇は885年(元慶9年)2月6日に第59代・宇多天皇と女御・藤原胤子の第1皇子として生まれました。第59代・宇多天皇は臣籍に降下して源定省と称していたことから源維城として生まれました。887年(仁和3年)に父が皇籍復帰して第59代・宇多天皇に即位すると皇族に列しました。893年(寛平5年)に立太子し、897年(寛平9年)に13歳で元服して第60代・醍醐天皇に即位しました。父から帝王の心得を記した「寛平御遺誡」を与えられ、それに従って左大臣・藤原時平と右大臣・菅原道真を重用して政務を任せました。しかし901年(昌泰4年)に藤原時平の讒言によって菅原道真が大宰府に左遷される昌泰の変が起こると藤原時平を重用しました。醍醐天皇の治世は形式上摂関を置かずに天皇親政で、後世に「延喜の治」と称されました。930年(延長8年)7月に菅原道真の祟りとも言われる清涼殿落雷事件が起こると体調を崩し、10月16日に皇太子・寛明親王(第61代天・朱雀天皇)に譲位し、7日後の10月23日に出家するともに崩御しました。
豊臣秀頼は1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿の第2子として生まれました。秀頼は秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政が拾い上げました。豊臣秀頼は幼名は拾丸でした。秀吉は秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に秀次の関白職を奪って自刃させ、秀頼の継嗣としての地位を確定させました。秀頼は秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に秀吉が死去すると秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の子・千姫と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。
金峯山寺見どころ

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