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金峯山寺二天門跡・金峯山寺見どころ(修学旅行・観光)
金峯山寺二天門跡
●金峯山寺二天門跡は本堂(蔵王堂)の南正面にあります。二天門跡にはかつて二天門が建立され、大峯山から出峰してきた行者を迎えていました。二天門跡では鎌倉時代末期の1333年(元弘3年)1月16日に鎌倉幕府軍が攻め寄せた際、村上義光(むらかみよしてる)が大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)の身代わりになって切腹したと言われ、石柱「村上義光公忠死之所」が建立されています。なお二天門は南北朝時代に焼失し、その後再建されることはありませんでした。
村上義光(村上義日(むらかみよしてる))は鎌倉時代末期に村上信泰の子として信濃で生まれたと言われています。「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)・南北朝時代から室町時代初期編纂」・「梅松論(ばいしょうろん)・南北朝時代編纂」に「村上義日」、「梅松論」の別写本に「村上義暉」と記されています。「尊卑分脈」によると従五位下(じゅごいげ)・左馬権頭(さまごんのかみ)または右馬権頭(うまごんのかみ))だったとも言われています。第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の第3皇子・大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)に仕え、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕の為の元弘の乱(げんこうのらん)が始まると子・義隆(よしたか)とともに大塔宮護良親王軍に参戦しました。1331年(元弘元年)に京都府相楽郡笠置町の笠置(かさぎ)が落城すると大塔宮護良親王とともに般若寺(はんにゃじ)から高野山(こうやさん)に逃れ、芋瀬荘司(いもせしょうじ)から錦の御旗(にしきのみはた)奪回しました。1332年(元弘2年)に大塔宮護良親王が吉野で挙兵し、1333年(元弘3年・正慶2年)に大塔宮護良親王が布陣する吉野城が鎌倉幕府から攻撃された際、同年3月17日に大塔宮護良親王の身代りになって自害し、大塔宮護良親王を落ち延びさせました。本堂(蔵王堂)から北西約1.4キロに村上義光の墓があります。1908年(明治41年)に従三位(じゅさんみ)が追贈されました。
大塔宮護良親王は鎌倉時代後期の1308年(延慶元年)に尊治親王(第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう))の第3皇子として生まれたと言われています。1318年(文保2年)に梶井門跡(かじいもんぜき・三千院門跡)に入寺し、1325年(正中2年)に門跡を継承して門主になり、1327年(嘉暦2年)に天台座主になりました。護良親王の天台座主就任には後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕に延暦寺を取り込む為とも言われています。後醍醐天皇による2度目の鎌倉幕府討幕(元弘の変)の際、弟・尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)とともに八王子に布陣したが、六波羅軍(鎌倉幕府軍)に敗れ、楠木正成(くすのきまさしげ)が籠もる赤坂城に逃れました。その後赤坂城が落城すると十津川・熊野などに逃れ、畿内の地侍などを組織しました。1332年(正慶元年・元弘2年)に還俗して護良親王と改名し、吉野で挙兵し、鎌倉幕府討幕の令旨を各地に送りました。河内信貴山に進軍し、赤松則村(あかまつのりむら)による六波羅探題(ろくはらたんだい)攻撃を援助しました。1333年(正慶2年・元弘3年)に後醍醐天皇が京都に戻ると征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になって兵部卿(ひょうぶきょう)に任じられました。その後室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、捕縛されて鎌倉に流罪となって幽閉され、1335年(建武2年)に北条時行(ほうじょうときゆき)が鎌倉へ侵攻した際、同年8月12日に淵辺義博(ふちべよしひろ)によって殺害されました。
金峯山寺見どころ