興福院客殿・興福院見どころ(修学旅行・観光)

興福院客殿

●興福院客殿は1973年(昭和48年)6月2日に国の重要文化財に指定されました。
●興福院客殿は江戸時代前期の寛文年間(1661年~1673年)に建立されました。興福院は大和大納言(やまとだいなごん)・豊臣秀長(とよとみひでなが)から寺領を寄進されて再興されたが、江戸時代前期の大坂の陣で豊臣家が滅亡すると衰微し、1636年(寛永13年)に光心尼が江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)から寺領を寄進され、その後客殿や本堂・大門が建立されたと言われています。客殿は左右3室を前後2列に配する禅宗系の建物になっています。
一般的に客殿は寺院などで来客と面会したり、接待したりする為に建立された堂塔です。
徳川家光は1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城(えどじょう)西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代(たけちよ)、乳母(めのと)は明智光秀(あけちみつひで)の重臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)の娘・春日局(かすがのつぼね・斎藤福(さいとうふく))です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位(じゅさんみ)権大納言(ごんだいなごん)に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して京都・伏見城(ふしみじょう)で将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位(しょうにい)内大臣(ないだいじん)に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。また徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。なお徳川家光は1651年(慶安4年)6月8日に亡くなりました。
●興福院客殿は桁行約13.9メートル・梁間約10.2メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
興福院

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