興福寺菩提院大御堂・興福寺見どころ(修学旅行)

興福寺菩提院大御堂

●興福寺菩提院大御堂は安土桃山時代の1580年(天正8年)に再建されました。菩提院は社伝によると奈良時代に玄昉僧正(げんぼうそうじょう)が創建したとも言われています。また玄昉僧正の菩提を弔う為に創建されたとも言われています。菩提院には玄昉僧正や平安時代後期に学僧・蔵俊(ぞうしゅん)が住んでいたとも言われます。菩提院大御堂は本尊・阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像(重要文化財)、稚児観音菩薩(ちごかんのんぼさつ)立像などを安置しています。なお菩提院は春日神鹿をあやまって殺した三作石子詰(さんさくいしこづめ)や近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の草した浄瑠璃の十三鐘(じゅうさんがね)の伝承でよく知られています。
玄昉僧正は飛鳥時代後期に阿刀氏(あとし・安斗氏)の一族として生まれたとも言われています。法相宗(ほっそうしゅう)の僧・義淵(ぎえん)もとで出家して弟子になり、師事しました。奈良時代前期の716年(霊亀2年)に学問僧に任じられ、翌717年(養老元年)に吉備真備(きびのまきび)らの遣唐使(けんとうし)に随行して唐(中国)に学問僧として渡りました。先に入唐していた智達(ちたつ)・智通(ちつう)らとともに法相宗の第三祖・智周(ちしゅう)について学びました。18年間の在唐中に唐の第9代皇帝・玄宗(げんそう)に召見され、三品(さんぼん)の位に准じられて紫衣(しえ)を賜りました。735年(天平7年)に経論5千巻の一切経(いっさいきょう)と諸々の仏像を携えて帰国し、経論を第45代・聖武天皇の皇后・光明皇后(こうみょうこうごう)の写経所に提供し、皇后発願の一切経(五月一日経)など書写の原本になりました。封戸(ふこ)・水田・童子(どうじ)を賜り、光明皇后が玄昉僧正の為に法華寺(ほっけじ)に隣接して海竜王寺(かいりゅうおうじ)を建立したと言われています。第45代・聖武天皇の母・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の病気を祈祷して回復させたことから賜物を賜り、宮中の内道場(ないどうじょう)に仕えるようになりました。第45代・聖武天皇から篤く信頼され、橘諸兄(たちばなのもろえ)のもとで吉備真備(きびのまきび)とともに権勢を振るいました。しかし740年(天平12年)に玄昉僧正・吉備真備を排除しようとする藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)が起こって藤原広嗣が敗死したが、745年(天平17年)に筑紫・観世音寺(かんぜおんじ)別当に左遷されました。玄昉僧正は法相宗の第四祖に数えられ、その系統の法相教学は興福寺伝(北寺伝)と言われました。なお玄昉僧正は746年(天平18年)7月15日に筑紫で亡くなりました。
●興福寺菩提院大御堂は正面約17.0メートル(桁行5間)・奥行約14.2メートル(梁行5間)で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。菩提院大御堂は正面に向拝(ごはい)付きです。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
興福寺見どころ

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