興福寺中金堂・興福寺見どころ

●興福寺中金堂は藤原京から平城京に遷都となった710年(和銅3年)に藤原不比等(ふじわらのふひと)が建立を開始し、714年(和銅7年)に完成しました。平安時代中期の1046年(永承元年)12月24日に北円堂などどともに焼失し、1048年(永承3年)3月2日に再建されました。1060年(康平3年)5月4日に講堂などどともに焼失し、1067年(治暦3年)2月25日に再建されました。1096年(嘉保3年)9月25日に講堂などどともに焼失し、1103年(康和5年)7月25日に再建されました。平安時代末期の1180年(治承4年)12月28日に平重衡(たいらのしげひら)による南都焼討によって全焼し、鎌倉時代前期の1194年(建久5年)9月22日に再建されました。1277年(建治3年)7月26日に講堂などどともに焼失し、1300年(正安2年)12月5日に再建されました。1327年(嘉暦2年)3月12日に講堂などどともに焼失し、1399年(応永6年)3月11日に再建されました。その後300年ほどは無事でした。江戸時代中期の1717年(享保2年)1月4日に講堂などどともに焼失し、1819年(文政2年)9月25日に仮金堂で仮再建されたが、2000年(平成12年)7月31日に解体されました。なお現在の興福寺中金堂は1991年(平成3年)に境内整備委員会が発足し、2010年(平成22年)10月に立柱式が行われ、2018年(平成30年)10月に落慶法要が行われました。
藤原不比等は659年(斉明天皇5年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌足)と車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)の次男として生まれました。藤原不比等は律令制度の確立に努め、大宝律令(たいほうりつりょう)・養老律令(ようろうりつりょう)の制定に加わり、平城京遷都を推進し、708年(和銅元年)に正二位・右大臣になりました。長女・宮子(みやこ)が第42代・文武天皇の夫人、三女・光明子(こうみょうし)が第45代・聖武天皇の皇后になり、長男・藤原武智麻呂(むちまろ))が南家祖、次男・藤原房前(ふささき)が北家祖、三男・藤原宇合 (うまかい) が式家祖、麻呂 (まろ) が京家祖になり、藤原氏繁栄の基礎を築きました。なお飛鳥時代の698年(文武天皇2年)に藤原不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、律令制において司法・行政・立法を司る最高国家機関である太政官(だいじょうかん)の官職に就くことができるとされました。
一般的に金堂は本尊仏を安置する本堂(仏堂)のことです。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
●興福寺中金堂は創建時と同規模と言われる幅東西約36.6メートル(桁行東西9間)・奥行き南北約23メートル(梁行南北6間)・高さ約21.2メートルで再建されました。興福寺の縁起類をまとめた「興福寺流記」には中金堂の規模が「金堂一宇 宝字記云 長十二丈四尺 延暦記云 九間十丈五尺云々 広□八尺 延暦記五丈八尺 大小垂木端并高欄用截金銅餝 延暦記高二丈三尺五寸」と記されています。
興福寺見どころ

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