興福寺薪能金春発祥地の石碑・興福寺見どころ(修学旅行・観光)

興福寺薪能金春発祥地の石碑

●興福寺薪能金春発祥地の石碑は中金堂西側に建立されています。興福寺では毎年5月の第3金曜日・土曜日に薪御能(たきぎおのう)南大門の儀、毎年10月の第1土曜日に塔影能(とうえいのう)が行われています。薪御能では金春流(こんぱるりゅう)・大蔵流(おおくらりゅう)・金剛流(こんごうりゅう)・観世流(かんぜりゅう)・宝生流(ほうしょうりゅう)が奉仕します。
金春流は家伝によると飛鳥時代に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の第2皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)を遠祖としています。秦河勝は秦(中国)の始皇帝(しこうてい)をルーツとし、3世紀から7世紀頃に大陸から日本に渡来した渡来人・秦氏の族長的人物だったとも言われています。秦河勝は聖徳太子から仏像を賜わって京都・広隆寺 (こうりゅうじ・蜂岡寺(はちおかでら)) を創建したり、物部守屋(もののべのもりや)討伐に従軍したりしたとも言われています。また秦河勝は能楽の大成者・世阿弥(ぜあみ)が記した能の理論書「風姿花伝(ふうしかでん)」によると聖徳太子が「六十六番の物まね」を作らせて紫宸殿(ししんでん)で舞わせ、「申楽(さるがく・猿楽)」の起源になったとも言われています。平安時代中期の第62代・村上天皇(むらかみてんのう)の時代に秦河勝の末裔・秦氏安が紫宸殿で「翁」を演じたと言われています。金春流は室町時代前期に興福寺・春日大社に仕え、猿楽大和四座(外山座(とびざ)・坂戸座(さかとざ)・結崎座(ゆうざき))に数えられた円満井座(えんまんい)が実質的な起源と言われています。毘沙王権守(びしやおうごんのかみ)とその子・金春権守(こんぱるごんのかみ・金春三郎豊氏(こんぱるさぶろうとようじ))が流儀の基礎を築きました。金春権守の孫で、世阿弥の娘婿である57世・金春禅竹(こんぱるぜんちく)が飛躍的な深化を遂げさせ、金春流の中興の祖と言われています。金春禅竹は岳父・世阿弥から「六義(りくぎ)」・「拾玉得花(しゅうぎょくとっか)」など多くの伝書を相伝しました。なお金春流はシテ方の五流(観世流・金剛流・宝生流・喜多流)の内、最古の流派と言われています。
薪御能は平安時代中期に興福寺で行われていた修二会(しゅにえ)の舞楽が起源と言われています。修二会は1月(正月)に行われる修正会 (しゅしょうえ) と同様に昨年を反省し、新年の国家安泰・天下泰平・万民豊楽・五穀豊穣などを祈願します。修二会は2月に行われることに由来しています。なお修二会は中国のから伝わり、奈良時代には南都七大寺で盛んに行われるようになったと言われています。
塔影能は元貫首(寺務老院)・多川俊映(たがわしゅんえい)が発願して行われています。塔影能は東金堂に安置されている本尊・銅造薬師如来坐像(重要文化財)に能・狂言を奉納します。その為能舞台の正面に座席がありません。なお東金堂(国宝)は726年(神亀3年)第45代・聖武天皇が伯母で、第44代・元正天皇の病気平癒を祈願する為に建立し、その後6度の被災し、1415年(応永22年)に再建されました。銅造薬師如来坐像は室町時代に造仏された像高約255.0センチです。脇侍は日光菩薩像・月光菩薩像(飛鳥・白鳳時代)です。
興福寺見どころ

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