興福寺仮講堂・興福寺見どころ(修学旅行・観光)

興福寺仮講堂

●興福寺仮講堂は中金堂の北側に建立されています。興福寺では江戸時代中期の1717年(享保2年)1月4日に中金堂・講堂などが焼死したが、江戸幕府・朝廷・藤原氏などの支援・援助が得られず、100年ほど再建されませんでした。江戸時代後期の1819年(文政2年)9月25日に町家の人々の寄進によって仮堂が建立されたが、松材が多く使用されていたり、瓦の焼きが甘かったりしたことから急速に荒廃し、1975年(昭和50年)に薬師寺(やくしじ)の旧金堂を移築して仮金堂が講堂跡に建立され、一時的に興福寺の金堂になりました。2000年(平成12年)に急速に荒廃した仮堂が解体され、2018年(平成30年)に中金堂が再建されると仮金堂の役割を終え、今後講堂となる予定です。なお仮講堂には国宝である梵鐘(ぼんしょう)やいずれも重要文化財である木造阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)・木造薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)木造地蔵菩薩立像(じぞうぼさつりゅうぞう)・木造梵天立像(ぼんてんりゅうぞう)が安置されています。
薬師寺は興福寺と同じ法相宗(ほっそうしゅう)大本山です。薬師寺・興福寺は例年11月13日に慈恩会を隔年交代制で行っています。薬師寺は飛鳥時代後期の680年(天武天皇9年)に第40代・天武天皇(てんむてんのう)が皇后・鵜野讃良(うののさらら・持統天皇(じとうてんのう))の病気平癒を祈願する為に発願し、藤原京右京八条三坊に創建されました。奈良時代初期の710年(和銅3年)の平城京遷都後に現在の場所である西ノ京に移されたと言われています。ちなみに当初の薬師寺では688年(持統天皇2年)に無遮大会(かぎりなきおがみ)が行われ、698年(文武天皇2年)に伽藍がほぼ完成したと言われています。その後薬師寺は平安時代中期の973年(天禄4年)の火災や戦国時代の1528年(享禄元年)の筒井順興(つついじゅんこう)の兵火により、多くの伽藍を焼失し、創建当初の建物は東塔だけになりました。なお薬師寺では1960年代以降に白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年(昭和51年)に現在の金堂が再建されました。
一般的に講堂は僧侶が経典の講義や説教などをする堂塔です。講堂は通常、中国・唐時代の伽藍配置に倣って、金堂(本堂)の背後に建立されています。講堂は奈良時代に建立が始まり、鎌倉時代以後にはほとんど建立されなくなったが、禅宗寺院で仏殿の背後に法堂として建立されました。講堂は奈良時代に建立された唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂や平安時代に再建された法隆寺(ほうりゅうじ)の大講堂がよく知られています。講堂で講義する際には本尊を安置し、講師が本尊に向かい、礼盤(らいばん)に座って講義を行いました。なお講堂は多くの僧侶が参集することから金堂よりも大きく建立されるが、装飾性は少い堂塔です。
一般的に金堂は本堂で、本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
●興福寺仮講堂は正面約26.7メートル(桁行9間)・側面約15.6メートル(梁行6間)で、寄棟造(よせむねづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
興福寺見どころ

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