興福寺南円堂・興福寺見どころ(修学旅行)

●興福寺南円堂は1986年(昭和61年)12月20日に国の重要文化財に指定されました。
●興福寺南円堂は813年(弘仁4年)に左大臣・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が父で、右大臣・藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)の冥福を願って建立したが、現4代目は江戸時代中期の1741年(寛保元年)に立柱し、1789(寛政元年)に再建されました。
藤原冬嗣は奈良時代の775年(宝亀6年)に右大臣・藤原内麻呂と飛鳥部奈止麻呂(あすかべのなとまろ)の娘・百済永継(くだらのながつぐ)の次男として生まれました。第50代・桓武天皇、第51代・平城天皇の時代に大判事などを歴任し、第52代・嵯峨天皇(賀美能親王)の皇太子時代に信頼されて側近になり、第52代・嵯峨天皇が天皇に即位すると一挙に四階昇進して従四位下・左衛士督に叙任されました。810年(大同5年)の薬子の変(くすこのへん)に際に設置された天皇の秘書機関・蔵人所(くろうどどころ)の初代の蔵人頭(くろうどのとう)になりました。その後左大臣になり、藤原氏による摂関政治の基礎を築き、「弘仁格式(こうにんきゃくしき)」「内裏式(だいりしき)」を編纂しました。なお藤原冬嗣は826年(天長3年)8月30日に亡くなりました。
藤原内麻呂は756年(天平勝宝8年)に大納言・藤原真楯(ふじわらのまたて)と阿倍帯麻呂(あべのおびまろ)の娘の三男として生まれました。781年(天応元年)に従五位下に叙され、785年(延暦4年)に最初の妻・百済永継(くだらのながつぐ)が第50代・桓武天皇の後宮になって皇子・良岑安世(よしみねのやすよ)を産むとその後急速に昇進しました。794年(延暦13年)に参議として公卿に列し、806年(延暦25年)に正三位・右大臣に叙任されました。藤原内麻呂は温雅で信望があり、過失を犯す事がなかったと言われています。なお藤原内麻呂は812年(弘仁3年)11月13日に亡くなりました。
●興福寺南円堂は内陣に本尊・不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)坐像を安置し、観音信仰の霊場・西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)の第9番札所になっています。
不空羂索観音は菩薩の一尊で、六観音あるいは七観音に数えられています。「不空」は「徒労ではない」、「羂索」は鳥獣などを捕らえる縄を意味し、不空羂索観音には「大悲心でもれなく衆生を救うという」という意味があります。不空羂索観音像は一面八臂(はっぴ)が通例で、手に羂索・蓮華(れんげ)・錫杖(しゃくじょう)・数珠(じゅず)など持っています。
西国三十三所はならじだいの718年(養老2年)に奈良・長谷寺(はせでら)の開基・徳道上人(とくどうしょうにん)に託宣があり、平安時代中期に花山法皇(第65代・花山天皇)が再興したと言われています。西国三十三所は青岸渡寺(せいがんとじ)・紀三井寺(きみいでら・金剛宝寺・護国院)・粉河寺(こかわでら)・施福寺(せふくじ)・葛井寺(ふじいでら・藤井寺)・南法華寺(みなみほっけじ・壺阪寺)・岡寺(おかでら・龍蓋寺)・長谷寺・興福寺(こうふくじ)南円堂・三室戸寺(みむろとじ)・醍醐寺(だいごじ)上醍醐准胝堂・正法寺(しょうほうじ・岩間寺)・石山寺(いしやまでら)・三井寺(みいでら・園城寺)・今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)・清水寺(きよみずでら)・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)・六角堂(ろっかくどう・頂法寺)・革堂(こうどう・行願寺)・善峯寺(よしみねでら)・穴太寺(あなおじ)・総持寺(そうじじ)・勝尾寺(かつおうじ)・中山寺(なかやまでら)・播州清水寺(きよみずでら)・一乗寺(いちじょうじ)・圓教寺(えんぎょうじ)・成相寺(なりあいじ)・松尾寺(まつのおでら)・宝厳寺(ほうごんじ)・長命寺(ちょうめいじ)・観音正寺(かんのんしょうじ)・華厳寺(けごんじ)です。法起院(ほうきいん)・元慶寺(がんけいじ)・菩提寺(ぼだいじ)は番外札所です。
興福寺見どころ

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