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久米寺多宝塔・久米寺見どころ(修学旅行・観光)
久米寺多宝塔
●久米寺多宝塔は1976年(昭和51年)5月20日に国の重要文化財に指定されました。
●久米寺多宝塔は江戸時代前期(1615年~1660年)に京都・仁和寺(にんなじ)の多宝塔として建立され、1659年(万治2年)に仁和寺から大塔跡に移築されました。かつての多宝塔は慶安年間(1648年~1652年)に焼失したと言われています。ちなみに大塔跡には巨大な礎石が残り、塔平面の大きさは国分寺を除くと最大規模とも言われています。1987年(昭和62年)に解体修理が行われ、現在の場所に移されました。
一般的に多宝塔は日本で上層を円形、下層を方形とした二重塔を言います。多宝塔は平安時代に密教が天台宗(てんだいしゅう)の開祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)や真言宗(しんごんしゅう)の開祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)によって伝えられ、多宝塔も建立されるようになったとも言われています。多宝塔は元々東方の宝浄国(ほうじょうこく)の教主・多宝如来(たほうにょらい)を安置する堂塔です。多宝塔はお釈迦様が大乗仏教の経典「法華経(ほけきょう)」を説いた際、空中に七宝(しちほう)の塔が現われ、塔中の多宝如来がお釈迦様(釈迦如来(しゃかにょらい))に讚嘆(さんたん)して半座(はんざ)を空け、二如来が並座したと言われることに由来しています。
仁和寺(にんなじ)は平安時代中期の886年(仁和2年)に第58代・光孝天皇(こうこうてんのう)が西山御願寺(にしやまごがんじ)を創建することを発願したのが始まりです。ただ翌887年(仁和3年)に光孝天皇が崩御し、888年(仁和4年)に第59代・宇多天皇(うだてんのう)が父の遺志を引き継いで創建しました。仁和寺は当初西山御願寺と言われていたが、その後年号寺・仁和寺に寺号が改められました。897年(寛平9年)に宇多天皇は第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)となる敦仁親王(あつぎみしんのう)に譲位し、899年(昌秦2年)に東寺一長者(とうじいちちょうじゃ)・益信(やくしん)を戒師として落髪して仁和寺1世になりました。その後904年(延喜4年)に宇多法皇は僧房・御室(御座所(ござしょ))を建てて住み、御室御所(おむろごしょ)と言われるようになり、931年(承平1年)に宇多法皇が崩御しました。平安時代から鎌倉時代に門跡寺院として最高の格式を保っていたが、室町時代中期の応仁の乱(おうにんのらん)で一山のほとんどを焼失しました。江戸時代前期の1634年(寛永11年)に仁和寺第21世・覚深法親王(かくしんにゅうどうしんのう)が江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)から再興を許され、慶長年間(1596年~1614年)の御所造替の際に建物が下賜され、1646年(正保3年)に伽藍の再建が完了しました。
●久米寺多宝塔は高さ約14.5メートルの三間多宝塔の栩葺(とちぶき)です。多宝塔は桃山様式を残しているとも言われています。
栩葺はブナ科の落葉高木である栩板で屋根を葺いたものです。栩葺は板厚約10~30ミリで、板厚約2~3ミリのこけら葺き、板厚約4~7ミリの木賊葺き(とくさぶき)よりも板厚が厚くなります。
久米寺